エジソン のバックアップ(No.2)


?:エジソン

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エジソンの豆知泉

  • 発明王エジソンは子供の頃、誰もが当たり前と思っている事にも疑問を抱き、つねに「なんで?」と大人に聞いていたので「腐った脳みそ」とあだ名を付けられていた。

  • 一番最初に録音された曲は「メリーさんの羊」で、エジソンがレコードの原理を発明した時にテスト録音で吹き込んだ物。歌っているのは勿論エジソン本人。

  • エジソンは晩年、死者と交信できる機械を研究していたが、完成する前に死んだ。


  • しかし電話に出るときの一言目の言葉「ハロー/Hello」を発明した。
    電話の発明者とされているベルは「Hoi」を提案していたが却下された。

  • ちなみにベルの提案した「Hoi」とは、ベルの普段からの口癖で意味はない。

  • エジソンは点字で読書をするのが好きだった。しかし別に本人は視覚障害者ではない。

  • エジソンは直流電流を主流にしようと考えていたために、交流電流は危険だと噂を流していた。

  • エジソンは死刑反対派だったが、交流を悪者にしようと「死刑にするなら交流電流を体内に流せば簡単に殺す事が出来る」と発言し、それが電気椅子開発のキッカケになった。

  • 当時はまだ直流・交流に決めかねていた電気事業で交流を推進しているライバル・テスラに子供じみた敵愾心を持っていたらしい。
    結局はご存じの通り、交流のほうが扱い易いのでエジソンの敗北となった。

1847年:0歳

  • 2月11日:出身地:アメリカ・オハイオ州生まれ
    学校教育はたった3ヶ月受けただけで、元教師だった母親に教えられた。

1859年:11歳〜12歳

  • 列車の新聞売り子として仕事を始める。
    そこで駅長から電信技術を学んで電信技師になる。

1864年:16歳〜17歳

  • 自動電信中継機を発明する。これがエジソンの発明人生のスタートだった。

1869年:21歳〜22歳

  • 始めての特許『電気式投票記録器』を発明。
    その後は発明請負業として繁盛し、タイプライターの改良や、炭素送話機などの発明を経て、科学者を集めた組織的な共同研究を開始する。
    その後の6年間で300件以上の特許を得た。

1877年(明治10年)29歳〜30歳

  • 7月31日:蓄音機の特許を取得。
    この蓄音機の発明後の改良によって80件以上の特許を取得、ここからレコード会社『ビクター社』が誕生する。

1879年(明治12年)31歳〜32歳

  • 10月21日:エジソンが日本産のの繊維を炭化させた白熱電球を完成。
    それまでも電気を使って明かりを灯す方法は考えられていたが、この竹をフィラメントとして使用する白熱電球により実用化でき、量産も出来るようになった。

1882年:34歳〜35歳

  • 9月4日:エジソンの造った世界初の発電所がニューヨークで発動開始
    同時期にロンドンでも発電所を始動させている。~あっと言う間に需要が供給を上回り、続々と発電施設を増設していくことになる。

1883年:35歳〜36歳

  • 白熱電球の電子放出現象を発見。つまり「電子」の存在を始めて確認することが出来、無線電信の特許に繋がった。
    その他に電子の発見を利用して、蛍光灯の発明や、エックス線蛍光透視鏡の発明(これは医学者が自由に利用できるようにと特許を申請しなかった)などもあった。これらはすべてウェストオレンジの研究所で発明された。

1887年:39歳〜40歳

  • 8月31日:エジソンが白熱電灯の特許を獲得
    1880年にエジソンは白熱灯を発明したが、ニューヨークのメロンパークにあったエジソン研究所で研究に研究を重ね100人以上の研究者の頭脳の結晶として、8年後の1887年のこの日、ついに特許権を獲得した。

1900年:42歳〜43歳

  • 京都の竹をつかったフィラメントの代わりに、綿フィラメントのカーボン電球が日本で製造され始める。
    アルカリ蓄電池を発明。(当初エジソン電池と言われる)

1906年:48歳〜49歳

  • 人工の光を使った映画撮影用のスタジオを考え出し、ニューヨークに設立
    蓄音機と映写機を兼ね備えた「カメラフォン」を発明(トーキー映画の始まり)

1914年7月28日〜1918年11月11日:56歳〜61歳

  • 第二次世界大戦中はアメリカ海軍顧問委員として45件の発明をする。
    「Uボート防御装置」「防水マット」などもその時期の発明。
    さらにゴム原料の開発では、植物交配実験をするなど機械方面の発明だけでなくバイオ的な方面にまで興味の幅を広げる。
  • 1日4時間しか睡眠をとらなかったとされ「天才とは1%が霊感で、残りの99%が汗だ」として自らを「労働服の哲人」と気取って見せたと言う。
    しばらくエジソンと共に働いた劇作家のバーナード・ショーは『理性なき集団』の中でエジソンがモデルとも思える人物を登場させている。

1930年:82歳〜83歳

  • 9月3日:アメリカ初の旅客電車を試運転(ニュージャージー州ホボケン〜モントクレア)

1931年:83歳〜84歳

  • 10月18日:アメリカ・ニュージャージー州ウェストオレンジで死去
         享年84歳
  • アメリカが世界に誇る偉大な発明家の死を、翌日の『ニューヨーク・タイムズ紙』はエジソンの生涯や追悼の言葉で4ページ半を費やした。

非現実を現実にするエジソン

  • エジソンは優秀な技術者であると同時に、思索家でもありました。
    1891年に『ゲーリー・ガゼット』紙によせた小論では
    「世間では私がものを創造したと言うが、私が何かを創造したことは一度もない。私は広く宇宙全体から着想を得て、それについて徹底的に研究するだけで、私自身はレコード盤か受信装置に過ぎないのです。思考とは実際には外から得られる着想である」
    と書いています。

  • ブラバッツキー女史と言う神秘家とも交際し、その思考を熱心に研究したと言われています。
    霊魂の存在には懐疑的な立場を取りながらも「宇宙に存在する生命の総計は不変である」と考えていました。
    さらに「脳の記憶をつかさどるブローカというひだ」と言う論文の前書きで「人が死んで体が腐り始めると、ブローカ細胞がこれまでの住処を捨てて故人の全記憶を保有したまま自由に宙を飛んでいく」などと書いています。
    そしてこの細胞をつかまえて、亡くなった人の精神とコミュニケーションをとる方法を探していたのです。

  • 1920年には「空気の霊気中をさまよう」不滅の生命を探知し、記憶する高感度の器具を作ろうとしていると発表しています。
    残念ながらその器具と思われる物は見つかっていません。
    霊界との交信などというと荒唐無稽で出来るはずないと思われるのですが、それまでもエジソンは人の声を記録して再生させたり、火も使わずに照明をつけたり、それ以前は荒唐無稽と思われてきた事を実現させてきたのですから、何かしらの方法を思いついていたのかも知れません。

音楽用ではなかったレコード

  • 蓄音機を発明した人がエジソンだと言うのは小さな子供でも知っています。
    現在は音楽専用として使用されているレコードに最初に吹き込まれた曲は「メリーさんの羊」で、しかも伴奏もなったく無い状態でエジソン本人がうたった物でした。

  • 実は耳が不自由だったエジソンは音質などにこだわることもなく、蓄音機は新聞記者の速記用・教育用・電話の伝言の記録用として考えていたらしいのです。
    つまり、蓄音機は留守番電話にと考えられていたのです。
    当初は円筒にかぶせたスズ箔が使用されていましたが、これだと2・3回針を落としただけですり切れてしまったそうです。
    レコードが産業として成り立つようになったのは、スズ箔の代わりにロウの円筒が使われるようになってからの事です。

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