喫茶店 のバックアップ(No.4)
- バックアップ一覧
- 差分 を表示
- 現在との差分 を表示
- ソース を表示
- 喫茶店 へ行く。
- 1 (2006-02-28 (火) 00:39:54)
- 2 (2006-03-01 (水) 22:04:51)
- 3 (2006-04-07 (金) 23:01:09)
- 4 (2006-06-26 (月) 04:36:51)
き?【きっさてん:喫茶店】
Counter: 10288,
today: 1,
yesterday: 0
喫茶店の豆知泉 †
- 昭和初期のカフェーの女給(ウェイトレス)は当時モダンだった洋装を支給されて着ていたが、まだ西洋式の下着を着ける習慣がなかったため、ある意味『ノーパン喫茶』だった。
- 漫画『のらくろ』は二等卒として猛犬連隊に入隊、大尉まで出世し依願免官し大陸で金鉱探し、帰国して旅館の番頭、探偵を経て喫茶店のマスターになった。
- 70年代初期フォークグループ・ガロが歌った『学生街の喫茶店』のモデルになった店は、お茶の水の『丘』
- 喫茶店を開業するのに最低でも「喫茶店営業許可」が必要。しかし出せる料理はトーストまで。サンドイッチを出すためには「飲食店営業許可」が必要。
世界初の喫茶店 †
日本初の喫茶店オープン †
- 1888(明治21)年.4月13日、東京の下谷黒門町(現在の台東区上野2丁目)に、日本で一番最初の喫茶店『可否茶館:かひいさかん』が開店しました。
経営していたのは鄭水寧と言う中国人で、二階建ての青ペンキで塗られた洋館で、1階はビリヤード場で2階が喫茶店になっていました。
▼コーヒー1杯1銭5厘
▼牛乳?入りコーヒー2銭
▼菓子付きコーヒー3銭
と言う値段でしたが、さらに席料が1銭5厘かかりました。
- 店内には、新聞や遊び道具が置かれ、さらに学生向けに文房具販売も行い、女性用の更衣室までありました。
インテリアや調度品なども、丸テーブル・籐製いす・ランプなどサロン風の徹底したこだわりを見せていました。
- 当時の物価で、そば一杯が1銭だったので、かなり高価な贅沢品だったのですが、それ以前にまだ庶民にコーヒーと言う物が浸透していなかった為に、この得体の知れない黒い液体を飲もうと考える人は少なく、二年半ほどで閉店してしまいました。
- 4月13日:喫茶店の日
- それから、約20年ほど経った頃、やっと日本でも江戸時代から続いていた掛け茶屋が、徐々に喫茶店、あるいはカフェへと変化し始めてきました。
不二家洋菓子店オープン †
カフェ †
- 明治44年4月、銀座に洋画家・松山省三が仲間と作った『カフェ・プランタン』がオープンしました。
店の看板は、黒地に金の文字で『Cafe-Prantemps』と書かれていた為に、一般の人には近寄りがたい場所だったようです。
この店は芸術家達の社交場のような意味合いがあり、常連客として志賀直哉?・谷崎潤一郎?・永井荷風?などという大正時代を代表する文化人が集っていました。
- その後、銀座七丁目に庶民レベルで入れる『カフェ・パウリスタ』と言う店がオープンしました。|
ここのブラジルコーヒーは1杯5銭で「悪魔の如く黒く、地獄の如く熱く、恋の如く甘い」と宣伝されていました。
この店では、カレーやハンバーグなどの洋食も食べることが出来て、気軽に入れるムードがあり大評判になり、名古屋・大阪・神戸にも支店が出来ました。
- さらに、銀座店には5銭でクラシック音楽?を聞くことが出来るジュークボックスが設置されており、当時は個人で蓄音機などを持てなかったために学生たちがコーヒー1杯で何時間もねばっていたそうです。
つまり、昭和期にブームになった名曲喫茶の元祖になったのです。
- 『カフェ・パウリスタ』と同じ銀座にあり対抗していた『カフェ・ライオン』と言う店も繁盛していたのですが、こちらの店は圧倒的に男性客が多かったと言います。
と言うのも、実は美人の女給さん(ウェートレス)が沢山いるので有名だったのです。
今で言う「メイド喫茶」の元祖ということでしょうか。
更新履歴 †
- 2000.00.00
- 2006.02.27:知泉