清水の次郎長 のバックアップ(No.1)


人名し【清水の次郎長】

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1820年(文政3年)0歳

  • 1月1日:出身地:駿河国(静岡県)清水湊
         本 名:山本長五郎
         実 父:雲不見(くもみず)三右衛門(清水湊の船待船頭)
  • 旧暦の元旦に生まれたが、昔から元旦生まれは良くない事件を引き起こすとされ、その為に米問屋を営む叔父の山本次郎八の養子になる。
    次郎長と言う名前はこの「次郎八の家の長五郎」を縮めた物。

1835年(天保6年)15歳

  • 15歳の頃、いっぱしの悪党として名をとどろかせる様になる。
    その頃、甲斐国(現在の山梨県)民大奮起と言う一揆が起こり周囲が混乱しているのに便乗し、家の金450両(現在の感覚で言えば5000万円以上)を持ち出し江戸に向かった。

  • が、あまりにも大金だった為に追手がかかり指名手配?され捕まり連れ戻される事となったが、この時激しく豪遊をして金は半分程に減っていたと言う。
    あまりにもあきれた次郎八から銭一貫文を渡され勘当同然に追い出される事になってしまった。

  • しかし次郎長は豪遊をして使ったと言っていた金を百両も抜いて保管してあった為、これを元手に浜松までの買い占めに走り、それで財を成し、次郎八に借りていた百両と、利息として五十石の玄米を渡した。
    この米相場での大成功が幕末風雲録に出てくる次郎長物語の始まり。

1838年(天保9年)18歳

  • きわと言う女と結婚する。

1839年(天保10年)19歳

  • 旅の僧侶に人相を見られ「命数25歳を出ず:25歳まで生きる事が出来ない」と言われ「じゃあ太く短く生きる」と開き直ってヤクザになった。

1843年:23歳

  • ケンカの末に相手を殺してしまったと思いこみ、きわと離婚をし、商っていた店を姉夫婦にゆずり、それから逃げるように清水を出奔する。
    三河の寺津治助(てらづのじすけ)宅にわらじを脱ぎ、ケンカに明け暮れる荒れた生活を続ける様になる。
    この時のあだ名が「ゴロ長」

1845年(弘化2年)25歳

  • 甲斐の紬文吉(つむぎのぶんきち)と駿河の和田島太右衛門のケンカを仲裁した事で、その男気な処が有名となる。

1848年(嘉永元年)28歳

  • 江尻大熊の妹おてふ(おちょう)を嫁にもらう

1850年(嘉永3年)30歳

  • 保下田(ほけた)久六を助勢し、一の宮久左衛門と争った
    ※この年、国定忠治が刑死になる

1858年(安政5年)38歳

  • 甲斐の祐典仙之助(ゆうてんせんのすけ)と不和になる

1859年(安政6年)39歳

  • 次郎長は実父の金比羅?信仰を受け継ぎ、讃岐の金比羅を詣で心を決め、その直後に保下田(ほけた)久六を殺害した。
    殺害後、清水の次郎長に対しての包囲網があったが、箱根関所・浜名湖新居関所の通行手形を預かっていた侠客・安東文吉に保護され助かった。

1860年(万延1年)40歳

  • 保下田(ほけた)久六殺害が祈願通りに成就した事の報告に、腹心の森の石松を金比羅に代参させる。
    しかし、その帰路、石松が都田一家に殺害されると言う事件が起こる。
    その仇を討ち、ついに三河地方までを手中に収める。

1864年(元治1年)44歳

  • 数年前から、宿敵とも言える黒駒勝蔵(くろこまかつぞう)が現れる。
    1864年山岳地帯から富士川・天竜川をイカダ?に乗って下ってくる黒駒の機動力に対抗するために、縄張り外を転戦するプロの戦闘集団「清水二十八人衆」を結成する。
    ※これは同じ様な民間のプロ戦闘集団「新撰組」結成より早い。
    黒駒一家の雲風亀吉(くもかぜのかめきち)との2度に渡る三河の抗争は「平井村の役」と呼ばれ、博徒抗争史上かつてないほどの殺戮戦だったという。

1866年(慶応2年)46歳

  • 東海道を名古屋まで収めた清水一家が伊勢路制圧に着手したのが、この年の荒神山の抗争。

  • 神戸長吉と穴太徳との縄張り争いがあったこの土地に入り、長吉側に着き、大政(山本政五郎)が率いる戦闘集団と、甲斐信濃制圧に転戦する大瀬半五郎の別働隊を三河の寺津で合流させて、吉良仁吉を大将にして荒神山へ攻め入った。
    しかし仁吉は荒神山で戦死。

  • その報復として次郎長は、千石船2隻に手勢480人、銃40丁、槍170幹、米90俵を乗せた戦略艦隊で伊勢に上陸し、穴太徳と、そのバックにいた丹波屋伝兵衛を屈服させる。
    この時の武器調達は、国定一家の3代目を勤めていた国定(田中)敬次郎だった。
    ※しかし、ここまでの清水の次郎長の武勇伝の多くが、《天田愚庵:あまだぐあん》が書いた『東海道遊侠伝』と言う講談本が元になっている。
    その話をさらに劇的に面白くしたのが、その後の浪曲や小説などで、かなり誇張して伝えられるようになった。 それもそのハズで、最初に次郎長の物語を書いた天田愚庵と言う人物は、次郎長の養子だった人物で、明治17年に博徒狩りの為に収監された次郎長の嘆願の目的で、意図的に次郎長を立派で人望が厚く曲がった事の嫌いな人物として書き、いわゆる暴漢としての博徒ではない処を知らしめ、後世に次郎長の名前を伝えると言う目的で書いたのだった。

1868年(慶応4年)48歳

  • 3月:勝海舟が江戸城無血明け渡しを決め、駿府(静岡市)までやってきていた西郷隆盛?に連絡をとる事にした。
    が、東海道の各所・要所は東征軍に見張られて簡単にはたどり着けない様になっていた。 密書をもたされた剣の達人・山岡鉄舟(31)は清水の手前の由比でついに進むことも戻る事もできない程に追いつめられてしまう。そこで「忘獄亭」という茶店の松永七郎平方にかくまって貰い事になる。
    そこで、この地を知り尽くした用心棒と言うことで清水の次郎長が紹介された。

  • 次郎長は子分の増川仙右衛門・国定敬次郎・大政・小政・当目の岩吉・相模常などを引き連れて駿府の伝馬町にいる西郷隆盛の宿舎まで送り届けた。
    そして日本は長い鎖国の時代から一気に国際派の道を歩み始める事になる。開国の裏には古い時代のヤクザ清水の次郎長も大きく関わっていた。

  • 4月:大きな働きをした次郎長は官軍から「市中警固役」を任される事になり、維新の風の中、ヤクザ稼業からは足をあらった。
    しかし、人の情けを忘れる人物ではなく、清水の海岸に流れ着いた幕臣側の死体を、「仏になった者に官軍も賊軍もあるものか」と、ちゃんと埋葬してあげたりもした。それを聞かされた、駿府城(静岡県静岡市)へ移り住んでいた最後の将軍徳川慶喜が大感激したと言う。
    もっともこのエピソードには、実は死体の処理は山岡鉄舟が機動力があってうまく使いやすい人物と言う事で次郎長に依頼したと言う説や、清水港に流れ着き腐敗を始めた死体の為に漁師は仕事にならなくなったので、網元たちが金を出し合って次郎長に処分を依頼したと言う説もある。

1874年(明治7年)54歳

  • 山岡鉄舟は、次郎長を正業につかせる為に、静岡県令・大迫定清?(おおさこさだきよ)と相談し、富士山麓の開墾を依頼した。
    この時の実作業にあたったのが、投獄されていた模範囚で、街道一の大親分と名前が知れ渡った次郎長には誰も逆らわずに熱心に仕事をしたと言います。
    開墾された土地は76町3反歩(約76ヘクタール)で、後に製茶・養蚕・杉や桧の苗・岡穂・小麦などが育成できる土地になった。
    現在の富士市大渕次郎長町がその土地です。

  • 開墾の仕事をきっかけに次郎長は新時代の中で実業家として、清水港の改修工事を指揮したり、静岡茶を横浜に運ぶ蒸気船会社の設立などを手掛けた。
    さらに英語学校なども開くほど、時代に柔軟に合わせる人物でもあった。

1893年(明治26年)73歳

  • 6月12日:フランスへ渡ることを夢みつつ、日清戦争の前年に死去。
    墓は清水の梅蔭寺
    墓碑銘は榎本武揚の筆による

1958年(昭和33年)没後55年

  • ガリ版刷りの「安藤文吉基本史料」が出版され、その中で清水の次郎長の事を安藤文吉が保下田久六殺害(1859)後に保護した話も掲載されている。

  • この文献は昭和まで生き残った安藤文吉の子分が語った物をまとめているのだが、清水の次郎長の箇所に関しては次郎長に都合の悪い部分はカットされて掲載された。
    これは昭和期になっても清水次郎長を慕う人が多く、悪い噂は事実だったとしても記載しにくかったからだと言われている。

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