アインシュタイン のバックアップ(No.2)
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- アインシュタイン へ行く。
- 1 (2006-07-03 (月) 00:25:09)
- 2 (2006-07-17 (月) 04:02:56)
人名あ【アインシュタイン】
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アインシュタインの豆知泉 †
- 幼児期のアインシュタインは生育が遅く、4歳まで言葉をしゃべらなかった。言葉を自由に話せるようになったのは9歳を過ぎてから。
- アインシュタインの成績が悪かった理由に「どのような数式でも即座に答えてしまうが、その答を導き出す過程を上手に説明できなかったから」と言うのがある。
- アインシュタインも大学受験に失敗したことがある
- 科学者・アインシュタインは、イスラエルの初代大統領に推薦されたもの、「私には手に負えません」と断っている。
- アインシュタインが相対性理論に関する文章を一番最初に書いたのは、20歳の時につき合っていた女性に当てたラブレターの中に。それから16年後の1915年に正式に『相対性理論』として発表。
- アインシュタインは洗濯石鹸でヒゲを剃っていた。誰かが髭剃り用の石鹸の存在を教えても「顔用と洗濯用と石鹸が2種類あるのはわたしには複雑過ぎる」と言って使わなかった。
- アインシュタインは靴下を履くのが大嫌いだった。
- アインシュタインの主張「学問は営業ではない」
- 花粉から出る微粒子の運動を発見した人はニーダム。理論的に解明した人はアインシュタイン。(ブラウン運動)
- 俳優アルバート・ブルックスの本名は「アルバート・アインシュタイン」。かの天才科学者アインシュタインと同姓同名。
- 有名な写真で、アインシュタインが舌をペロっとだしたポートレイトのタイトルは『人間味』というもの。
- アインシュタインの脳は死後も保管されているが、現在、グラム単位に分解されて分析が進められている。プリンストン大学の病理学部長をしていたハービー博士がその研究の監督を担当している。
アインシュタインの略年譜 †
- 1879年3月14日:00歳
- ドイツのウルム市でユダヤ人の子供として誕生。
その後一家はミュンヘンに移り住む。
- ドイツのウルム市でユダヤ人の子供として誕生。
- 1896年:18歳
- スイスのチューリッヒにあるスイス連邦工科大学に入学
しかし講義はつまらなく、授業中は物理学の本を読んで時間をつぶした。
- スイスのチューリッヒにあるスイス連邦工科大学に入学
- 1902年:22歳〜23歳
- 大学を卒業して学界に職を求めたが得られず、スイス・ベルンの特許局に就職し特許局技官になる
- 大学を卒業して学界に職を求めたが得られず、スイス・ベルンの特許局に就職し特許局技官になる
- 1903年:23歳〜24歳
- ミレバ・マリッチと結婚
- ミレバ・マリッチと結婚
- 1905年:25歳〜26歳
- 1907年:27歳〜28歳
- 量子論による固体比熱の研究
- 量子論による固体比熱の研究
- 1911年:31歳〜32歳
- 1912年:32歳〜33歳
- 吸収した光量は物理化学的反応を呼び起こすこと(光科学当量の法則)を発表
- 吸収した光量は物理化学的反応を呼び起こすこと(光科学当量の法則)を発表
- 1914年:34歳〜35歳
- 第一次世界大戦(〜1918)
- 第一次世界大戦(〜1918)
- 1915年:35歳〜36歳
- 一般相対性理論として知られる重量の理論を完成
- 一般相対性理論として知られる重量の理論を完成
- 1916年:36歳〜37歳
- 一般相対性理論の数学的問題を研究し完成させ、定式化させる
- 一般相対性理論の数学的問題を研究し完成させ、定式化させる
- 1917年:37歳〜38歳
- 「一般相対性理論に基づく宇宙論的考察」で静的宇宙モデルを発表
宇宙を静的にするために宇宙項を導入。
しかし、これ後に宇宙膨張の証拠が見つかった為に、アインシュタインは「人生最大の間違い」と悔やむことになる。
- 「一般相対性理論に基づく宇宙論的考察」で静的宇宙モデルを発表
- 1919年:39歳〜40歳
- 1919年5月29日:ロンドン王立天文学会の日食観測隊が太陽の重力場によって光が偏るかどうかを観測する。
- 1919年11月6日:アインシュタインの一般相対性理論で説かれていた事が正しいことを確認
- 1919年:ミレバと離婚・いとこのエルザと再婚
- 1919年5月29日:ロンドン王立天文学会の日食観測隊が太陽の重力場によって光が偏るかどうかを観測する。
- 1921年:41歳〜42歳
- イギリス・ポツダムにアインシュタイン相対性理論研究塔を建築
設計はエーリヒ・メンデルスゾーン
理論物理学の業績、特に光電効果の法則の発見により、ノーベル物理学賞?を受賞。
- イギリス・ポツダムにアインシュタイン相対性理論研究塔を建築
- 1922年:42歳〜43歳
- 1922/11/18:山本実彦の運営する出版社「改造社」の招待でアインシュタイン来日。その為に日本でも相対性理論ブームが起こる。
この時、解説・通訳として同行した石原純はその後日本に於ける相対性理論の第一人者として有名になる。 - 1922/11/19:アインシュタイン日本で初の講演(三田の慶大)
A.A.フリードマン(ソ連)一般相対性理論に基づいて宇宙は膨張していると予測。 - 1922年:1921年度のノーベル賞を受賞・賞金は前妻ミレバへ
- 1922/11/18:山本実彦の運営する出版社「改造社」の招待でアインシュタイン来日。その為に日本でも相対性理論ブームが起こる。
1925年:45歳〜46歳 †
- 1925年1月30日:ベルリンでアインシュタイン暗殺を企てた女性が逮捕
1933年:53歳〜54歳 †
- 1933年:ドイツでヒトラー政権成立
- 1933年10月17日:ナチスの迫害によりアインシュタインはアメリカに移住する
1938年:58歳〜59歳 †
- アインシュタインがL・インフェルトが共著で一般向けに解読した物理学発展史『物理学はいかにつくられたか』を発表。
1939年:59歳〜60歳 †
- 日本で、前年アメリカで出版されたアインシュタイン・インフェルト共著の一般向け物理学発展史『物理学はいかにつくられたか』の日本語版が発行。
- 10月11日:アインシュタインら在アメリカ科学者が原子力の軍事応用の可能性をルーズベルト大統領に手紙で伝える。
- 10月21日:ルーズベルト大統領「ウランに関する詰問委員会」を創設。原子爆弾製造の見通しを検討する会合を開催する。(マンハッタン計画)
- 1939年12月08日:第二次世界大戦(〜1945)
1952年:72歳〜73歳 †
- 1952年10月23日:アインシュタインが原爆製造に関係した事の釈明を日本の朝日新聞に掲載する。
- 【アインシュタイン日本国民への釈明】
- 原子爆弾の制裁にあたって、私が関係したのは次のただ1点だけだ。それは私が原子爆弾製造の可能性を調べるために大規模な研究を行うことが必要だと強調した手紙をルーズベルト大統領に送ったということである。
もちろん私はこのような試みが成功した場合、それが人類におよぼす恐るべき危険については知っていた。
しかし、ドイツが「原子爆弾製造」という同じ問題の研究で成功を納めるかもしれないと考えられていたために、私としてはこの処置を取らざるを得なかった。
私は常に絶対の平和主義者だが、この場合私としては他にどうすることもできなかった。
私の考えるところでは、戦争における殺人行為は、一般の殺人と何ら異なるところはないと思う。
しかし、すべての国々が互いに協力して戦争を止め、法的な基礎の上にたっての平和的な決定に従って紛争を解決し、かつ権益を保護しようという決意をしない限り、すべちぇの国々は戦争のための準備をせざるを得ない状態にある。
このような事情のもとでは(原因となる)危険そのものを取り除くことのみが有効な方法なのだ、人々はこの目的のために努力するべきで、この目的に反する行為へ強制された場合、それを拒否するよう決意すべきだ。
現代における最大の政治的天才故ガンジーは、人間というものが正しい道を知り得た場合にいかなる犠牲に絶えられるかということについて実証してくれている。
インド解放のためにガンジーがなしとげた仕事というものが、一見絶対優位であるかに思われる物質的な力より強いと言うことを立証してくれている生きた証拠なのだ 10.23
- 原子爆弾の制裁にあたって、私が関係したのは次のただ1点だけだ。それは私が原子爆弾製造の可能性を調べるために大規模な研究を行うことが必要だと強調した手紙をルーズベルト大統領に送ったということである。
1955年:75歳〜76歳 †
- 1955年4月18日:アメリカ・プリンストンで死去:享年76
アインシュタインが死ぬ直前、病院のベッドの上でつぶやいた言葉は永遠の謎とされている。
なぜならば、その最後にボソボソ言った言葉はドイツ語で、そばにいた看護婦は英語しか解らなかった。 - 1955年7月9日:バートランド・ラッセルや湯川秀樹など世界的科学者8人が、原水爆戦争の危険を各国首脳に警告(ラッセル・アインシュタイン宣言)