那須与一 の変更点


 [[な]]:那須与一(なすのよいち)
 [[人名な]]:那須与一(なすのよいち)
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 *弓の名手 [#a41567fa]
 -1185年[文治元年]に、源平の運命を決めた屋島の合戦は様々なエピソードを生み出しましたが、その中でも戦いとはあまり関係なく物語として出て来るのが、弓の名手であった那須与一が扇を打ち落とす話です。~
 -[[1185(文治元)年>1185年]]に、源平の運命を決めた屋島の合戦は様々なエピソードを生み出しましたが、その中でも戦いとはあまり関係なく物語として出て来るのが、弓の名手であった那須与一が扇を打ち落とす話です。~
 この話は『平家物語』に出てきて一般的になったものですが、平家側の女房が小舟の上で扇を撃ち落とせるか?と挑戦をしてきた。~
 そこで、《[[源義経]]:みなもとのよしつね》(1159-1189)は、弓の名手だった那須与一を選出して、みごとに扇を打ち落とさせたと言う話です。~
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 *その後の那須与一 [#q6c65b4c]
 -那須与一と言うと、この一瞬があまりにも有名でそれ以外の話はほとんど伝わって来ていませんが、実際には平家が滅亡して《[[源頼朝]]:みなもとのよりとも》の天下となったあとも多くの活躍をしています。~
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 -しかし、晩年の那須与一は出家してお坊さんになっています。~
 那須一族のことを書いた『那須記』の中には「落髪中到上洛」と出家して[[京都]]へ向かったと言うことが記されてします。~
 そして京都府二尊院所蔵『源空七筒條起請文』の中に、那須与一が出家して《源蓮》と言う名前になったと書き残されているのです。~
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 *出家の理由 [#kbb840b0]
 -那須与一は1202年[健仁2年]34際で出家し、浄土宗を開いた法然に弟子入りをして、そのわずか2年後には法然の高弟となったとされています。~
 -那須与一は[[1202(健仁2)年>1202年]]、34歳で出家し、浄土宗を開いた法然に弟子入りをして、そのわずか2年後には法然の高弟となったとされています。~
 那須与一が出家した理由に、源平合戦で多くの人々の命が奪われたことに対しての供養があったようで、その後、那須家からの資金援助を受けながら、西国を旅して、戦死者の菩提を弔い続けたのです。~
 30年あまり僧侶として供養の旅を続けた与一は、64歳の時、現在、[[兵庫県]]神戸市にある北向八幡神社に滞在している時に、病気になり死去しました。~
 この神社の境内には《那須神社》も奉られ、墓もそこにあります。~
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 -2001.06.30記載
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