忠臣蔵 の変更点


 [[ち]]【ちゅうしんぐら:忠臣蔵】
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 *忠臣蔵の豆知泉 [#vd777e42]
 -吉良邸に討ち入った浪士は47人だが、討ち入らなかった浅野家家臣は333人。
 
 *1701年3月 松の廊下事件 [#n3cf1437]
 -1701(元禄14)年3月、江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみ の ながのり)が、幕府の礼式を司る高家(こうけ)筆頭の吉良上野介義央(きらこうずけのすけ よしなか)に小刀で切りかかるという事件が起こった。~
 その結果、当日に浅野は切腹させられ、領地は没収された。軽傷の吉良には一切のおとがめはなかった。これが事件の発端だった。~
 浪士となった家臣たちは、主君の仇を討つために綿密に計画を練った。
 
 *1702年12月14日 赤穂浪士 吉良邸討ち入り [#af51fcf4]
 -家臣たちは主君の仇を討つために綿密に計画を練り、翌年1702(元禄15)年[[12月14日]]深夜(現在の暦法では15日午前3時頃ですが、当時は日の出の時間に日付が変わっていたので14日とされています)、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の率いる47人の旧赤穂藩浪士は、本所林町の堀部安兵衛宅に集い、そこから吉良邸へ向かった。~
 隣邸の旗本・土屋主税(ちから)に挨拶をし、土屋は快く同意したと言う。~
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 -浪士たちは二手に分かれ、吉良邸に討ち入った。2時間の戦いの末、浪士側はひとりの死者も出さずに吉良の首をとった。~
 その後、彼らは泉岳寺に向かい、亡君の墓前に首を手向けた。[[武士]]の本懐を遂げた赤穂浪士たちに世論はこぞって味方をした。~
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 -当時の幕府はその中、厳しい選択を迫られたが、最終的にその処置は、翌年2月4日、一同切腹と言う物になった。~
 彼ら赤穂浪士は現在、主君と同じ泉岳寺に眠っている。
 
 *忠臣蔵メンバー [#q23fbd89]
 | 名前 | 享年 | 読み |
 | 大石 内蔵助 良雄 | 45 | おおいし くらのすけ よしたか |
 | 吉田 忠左衛門 兼亮 | 63 | よしだ ちゅうざえもん かねすけ |
 | 原 惣右衛門 元辰 | 56 | はら そうえもん もととき |
 | 片岡 源五右衛門 高房 | 37 | かたおか げんごえもん かたふさ |
 | 間瀬 久太夫 正明 | 63 | ませ きゅうだゆう まさあき |
 | 小野寺 十内 秀和 | 61 | おのでら じゅうない ひでかず |
 | 大石 主税 良金 | 16 | おおいし ちから よしかね |
 | 礒貝 十郎左衛門 正久 | 25 | いそがい じゅうろうざえもん まさひさ |
 | 堀部 弥兵衛 金丸 | 77 | ほりべ やへえ かなまる |
 | 近松 勘六 行重 | 34 | ちかまつ かんろく ゆきしげ |
 | 冨森 助右衛門 正因 | 34 | とみのもり すけえもん まさより |
 | 潮田 又之丞 高教 | 35 | うしおだ またのじょう たかのり |
 | 堀部 安兵衛 武庸 | 34 | ほりべ やすべえ たけつね |
 | 赤埴 源蔵 重賢 | 35 | あかばね げんぞう しげかた |
 | 奥田 孫太夫 重盛 | 57 | おくだ まごだゆう しげかた |
 | 矢田 五郎右衛門 助武 | 29 | やだ ごろえもん すけたけ |
 | 大石 瀬左衛門 信清 | 27 | おおいし せざえもん のぶきよ |
 | 早水 籐左衛門 満堯 | 40 | はやみ とうざえもん みつたか |
 | 間 喜兵衛 光延 | 69 | はざま きへえ みつのぶ |
 | 中村 勘助 正辰 | 48 | なかむら かんすけ まさとき |
 | 菅谷 半之丞 政利 | 44 | すがや はんのじょう まさとし |
 | 不破 数右衛門 正種 | 34 | ふわ かずえもん まさたね |
 | 千馬 三郎兵衛 光忠 | 51 | せんば さぶろべえ みつただ |
 | 木村 岡右衛門 貞行 | 46 | きむら おかえもん さだゆき |
 | 岡野 金右衛門 包秀 | 24 | おかの きんえもん かねひで |
 | 吉田 沢右衛門 兼貞 | 29 | よしだ さわえもん かねさだ |
 | 貝賀 弥左衛門 友信 | 54 | かいが やざえもん とものぶ |
 | 大高 源五 忠雄 | 32 | おおたか げんご ただかつ |
 | 岡嶋 八十右衛門 常樹 | 38 | おかじま やそえもん つねき |
 | 武林 唯七 隆重 | 32 | たけばやし ただしち たかしげ |
 | 倉橋 伝助 武幸 | 34 | くらはし でんすけ たけゆき |
 | 村松 喜兵衛 秀直 | 62 | むらまつ きへえ ひでなお |
 | 杉野 十平次 次房 | 28 | すぎの じゅうへいじ つぎふさ |
 | 勝田 新左衛門 武堯 | 24 | かつた しんざえもん たけたか |
 | 前原 伊助 宗房 | 40 | まえばら いすけ むねふさ |
 | 間瀬 孫九郎 正辰 | 23 | ませ まごくろう まさとき |
 | 小野寺 幸右衛門 秀富 | 28 | おのでら こうえもん ひでとみ |
 | 間 重次郎 光興 | 26 | はざま じゅうじろう みつおき |
 | 奥田 貞右衛門 行高 | 26 | おくだ さだえもん ゆきたか |
 | 矢頭 右衛門七 教兼 | 18 | やとう えもしち のりかね |
 | 村松 三太夫 高直 | 27 | むらまつ さんだゆう たかなお |
 | 神崎 与五郎 則休 | 38 | かんざき よごろう のりやす |
 | 茅野 和助 常成 | 37 | かやの わすけ つねなり |
 | 横川 勘平 宗利 | 37 | よこがわ かんぺい むねとし |
 | 間 新六 光風 | 24 | はざま しんろく みつかぜ |
 | 三村 次郎左衛門 包常 | 37 | みむら じろざえもん かねつね |
 | 寺坂 吉右衛門 信行 | 83 | てらさか きちえもん のぶゆき |
 |~|~| 唯一の生き残り/討ち入り時38歳 |
 
 *仮名手本忠臣蔵 [#k2eb0d5a]
 -現代でも何度も舞台で上演され、映画化やTVドラマ化され続けている忠臣蔵ですが、この話は昔から大人気で江戸時代に上演された舞台で一番回数の多かった物ではないかと言われている程です。~
 しかし、実際に起きた事件だった為に江戸時代には大っぴらには上演できなかったのです。~
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 -その事件の主人公である四十七士を褒め称えるということは、間接的に幕府の下した裁定に異論を唱えると言うことにもなってしまうからです。~
 そこで時代設定を「太平記」に借りて(室町時代〜安土桃山時代)、登場人物の名前を元ネタが解るような状態に変えた歌舞伎や浄瑠璃に生まれ変わったのです。(たとえば大石内蔵助は大星由良助)~
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 -実際の事件が起こった年から46年後に人形瑠璃として初演され、その反響の大きさから翌年は人間が演じる歌舞伎になり江戸三座で上演されました。~
 そして登場する志士の人数が47人で、「いろ歌」も47文字と数が合うことから「仮名手本忠臣蔵」と言う名前で上演されていたのです。~
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 -さらに「いろは47文字」に隠された秘密として、いろは文字を7文字づつで区切ると出てくる隠し言葉があるためとも言われています。~
  いろはにほへ-と~
  ちりぬるをわ-か~
  よたれそつね-な~
  らむうゐのお-く~
  やまけふこえ-て~
  あさきゆめみ-し~
    ゑひもせ-す~
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 -最後の文字を続けて読むと「とかなくてしす」つまり「咎、無くて死す」と言う意味になり、赤穂浪士たちには無実の罪で切腹させられたと言う意味が現れてくるのです。~
 -もっとも、このいろは歌の謎はもともとあった物だったために、後から関連づけて考えられた物だと言われています。~
 
 *この事件の一番の被害者:梶川与惣兵衛 [#z75a8f28]
 -あの話の発端になる松の廊下のシーンは有名で、刀を振り回す浅野内匠頭、逃げまどう吉良上野介、そしてそれを「殿中でござる、殿中でござる」と叫びながら浅野内匠頭を後ろから押さえる役人。~
 実際には本来ならケンカ両成敗でどっちが悪いにしろ原因を作ったということで吉良上野介も何らかの処罰が下されるハズだが、紀伊徳川家と関係があった吉良は処罰されなかったと言う裏がある。~
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 -で、この時もう一人とばっちりで人生を狂わされちゃった人が「殿中でござる」のセリフを言う人物・梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)で、一般的には松の廊下で吉良が「田舎サムライ」と浅野を罵倒して、それに耐えかねた浅野が「うぉのれぇぇぇ!」と刀を振りかざし、そこに大奥よりの伝言を浅野内匠頭に伝えに来て遭遇しちゃった梶川が「おいおいマジっすか?ここじゃまずいっすよ」と浅野を取り押さえたと言うことになっている。~
 これによって吉良側が「助かったよぉ感謝感謝」と言うことで、梶川が500石加増されたという。~
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 -それで出世したと言うことのお礼を老中に挨拶にいった所、「こいつ、浅野と吉良の個人的なケンカを仲裁した奴」とどこの老中の家でも曾我兄弟(そがきょうだい)の仇討ちの屏風を見せられたという。~
 いわゆる曾我兄弟の仇討ちってのは、犯罪者として逮捕状が出ていた曾我兄弟であったけれど、役人の御所五郎丸(ごしょごろうまる)が仇討ちを果たすまで見逃してやったと言う話で、「あのなぁ武士が我慢に耐えきれずに殿中って解っているのに刀を振り上げたのはよっぽどの事だぞ、それをオマエは吉良にゴマする為にあんな事しやがって、てめえは侍の気持ちが解らねえのかよ」ということらしい。~
 そんなこんなで、周囲から「あいつはゴマすり野郎で、武士の気持ちがわからない奴」とさげすまれるようになってしまい、ついに自ら御役御免(いわゆる退職願い)を申し出るまで追いつめられてしまったという。~
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 -しかし、実際には梶川与惣兵衛が残した日記によると「その日、俺が吉良上野介のオッチャンと話をしてたら、いっきなし後ろから浅野内匠頭が刀を振りかざしてきたんだよ。いっきなしだぜ、そりゃビックシして待ったを掛けるって、普通そうだろ。俺は吉良のオッサンが浅野ちゃんを影でいじめてたなんて知らねえから、あとで武士がどーこー言われてもしょーがねーだろ」ということらしい。~
 そんなこんなで、いきなりの出来事に巻き込まれて咄嗟に[[当たり前]]の対応した事が徒になってしまった男がいたのだ。~
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 -吉良上野介が集団テロに会うのは自業自得、浅野内匠頭が逆ギレしちゃって処分されるのも、忠臣蔵の47匹侍大行進が処罰されるのも当然のこと。~
 あの事件で一番の被害者はこの梶川与惣兵衛なのかも知れない。~
 
 
 *更新履歴 [#zfc646a4]
 -1998.00.00
 -2003.00.00(一番の被害者:梶川与惣兵衛)
 
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