大坂夏の陣 の変更点


 [[お]]【おおさかなつのじん:大坂夏の陣】徳川家康(03)
 #counter(today)
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 +1541年12月26日 [[徳川家康]]:誕生
 +1590年08月01日 [[江戸に入府>江戸城]]:徳川家康(02)
 +1615年05月08日 [[大坂夏の陣]]:徳川家康(03)
 +1616年04月17日 徳川家康死去
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 *徳川家康の圧勝で大坂夏の陣が終わる [#s44f1e93]
 -[[1615[慶長20]年05月08日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=1615/05/08]]・徳川家康がそれまで全国を掌握しつつあった[[豊臣秀吉]]の死後、その後継者だった息子の豊臣秀頼と母親・淀君を追いつめた最終決戦・大坂夏の陣が、秀頼・淀君の自害、そして大阪城の炎上により終結しました。~
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 -この大阪城と言うのは、築城の天才と言われた豊臣秀吉が建てた名城でしたが、[[1598年]]に秀吉が亡くなった後の話とはいえ、いとも簡単に落ちてしまったのには理由がありました。~
 と言うのも、この落とすのに難しいとされた城を落とす技を豊臣秀吉本人が考案したからなのです。~
 それはまだ戦国時代も半ば頃、豊臣秀吉と徳川家康が友好関係にあった時代、この大阪城に家康も招かれた時、秀吉は自らの大傑作である大阪城を案内して周り「たとえ日本全国の軍勢がこぞって攻め掛かろうとも、摂津(大坂西部と兵庫県南東部)の[[武士]]がこの城に立てこもるだけで、充分に守りきる事が出来るぞ」と自慢したのです。~
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 -そこで家康は「しかし、太閤殿下(秀吉のこと)の軍略をもってすればいかがなものでしょうか?」と問いかけたのです。~
 家康の腹の中には将来、秀吉と敵対した時の事を考えての策略だったのですが、秀吉はそれに対して「もちろんわしがこの城を攻めた場合はどんな城であろうともあっさりと落とすことができる。まず、一度攻撃をしかけておいて、その後和睦を結び安心させ堀を埋めさせるのだ。その後再び大軍をもって攻め落とすのだ。」と、大阪城攻略のアイディアをこともあろうか家康に教えてしまったのです。~
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 -その後、1598年に秀吉が亡くなった後の[[1614[慶長19]年>1614年]]に冬の陣として家康は大阪城をひとまず攻め、その後和睦を結んで、秀吉のアイディア通りに堀を埋め立てさせてから、翌年の1615[慶長20]年に再び攻め込み、あっけなく落城させることに成功させたのです(夏の陣)。~
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 *鎧を着なかった徳川家康 [#j43035b9]
 -決戦が迫る時刻が近づいてきていた時になっても徳川家康は出陣用の鎧を着なかった。~
 そこで側近だった《[[藤堂高虎]]:とうどうたかとら》が鎧を着るように促したところ、家康は「大坂の小倅(こせがれ)ごときに甲冑などいらん!」と言い放ったと言う。~
 これは、徳川家康の肝の据わった処を伝えるエピソードとされているが、真相は別の処にあったらしいのです。~
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 -実は大坂夏の陣の頃、家康はすっかり太ってしまい、その下腹は置物の[[タヌキ>狸]]の様になっていたといい、実は用意した鎧はすっかりサイズが合わなくなっていたのです。~
 もし無理して鎧を着た場合、歩くこともままならず、[[馬]]に乗っても下を見下ろすがやっとと言う状況だったみたいです。~
 そんな事を、かつて豊臣秀吉の配下だった藤堂高虎(つまり外様)になんぞ言えるハズが無く、徳川家康は強がってみせたのです。~
 これはその後『駿河土産』と言う文献に書かれているエピソードです。~
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 *更新履歴 [#p510c813]
 -2001.00.00
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