足利義教 の変更点


 [[人名あ]]【あしかがよしのり:足利義教】[[足利将軍]]
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 誕生:1394年7月12日(応永元年6月14日)~
 死去:1441年7月12日(嘉吉元年6月24日)享年47
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 室町幕府第6代将軍~
 在位:1428年(正長元年)34歳〜~
    1441年(嘉吉元年)47歳~
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  父:[[足利義満]](3代将軍/3男)~
  母:[[藤原慶子]](安芸法眼の娘)~
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 正室:[[日野宗子]]~
 正室:[[三条尹子]]~
 正室:[[日野宗子]]・[[三条尹子]]~
 側室:[[日野重子]]~
  子:[[足利義勝]](7代将軍)~
  子:[[足利義政]](8代将軍)~
  子:[[足利義視]]~
  子:[[足利義勝]](7代将軍)・[[足利義政]](8代将軍)・[[足利義視]]~
 側室:少弁殿~
  子:[[足利政知]](堀越公方)~
 側室:東御方(長慶天皇孫、玉川宮女)~
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 -同級生([[1394年生まれ>http://tisen.jp/hbd/edit/query.php?KeyEdit=True&KeyDate=%3E1394]])
 +1394/01/01:[[一休宗純禅師>一休さん]](一休さん:臨済宗の僧)
 +1394/03/04:エンリケ(ポルトガル王子・航海王子)
 +1394/07/12:[[足利義教]](室町幕府第6代将軍)
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 *くじ引きで決定した将軍 [#h199dcfa]
 -4代将軍の足利義持が出家して息子の義量(よしかず)を5代将軍にしたが、在位2年目に19歳で他界。~
 義持には他に男子がいなかったので将軍空位になった。~
 しばらくは義持がなんとか場をしのいでいたが、今度は義持が危篤状態となってしまった。~
 -管領(かんれい)畠山満家など宿老たちが醍醐寺三宝院の満済(まんさい)を通じて、病床の義持に訪ねたのだが「もうワシャ誰がいいかなんて判らんから、選出は任せる、勝手にせいよ」と言い残したまま、1427年に死去してしまった。~
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 -そこで満済の提案で、僧籍にいた義持の4人の弟、青蓮院義円(しょうれいいんぎえん)・相国寺永隆(しょうこくじえいりゅう)・大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)・梶井義承(かじいぎしょう)の中から時期将軍を決めようという事になった。しかもその方法がくじ引き。~
 -義持の死の翌年1428(正長1)年1月19日に「決定!足利6代将軍当選くじ引き大会」が開催された。~
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 -結果として選ばれたのは青蓮院義円。そんな気もなかったのだが渋々と還俗して名前を「足利義宣(よしのぶ)」と変えて、翌年の1429(享永1)年に征夷大将軍になった。~
 -ちなみに義宣(よしのぶ)という名前が「世忍ぶ」では縁起が悪いと言うことで、後に知られる足利義教(よしのり)となった。~
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 -綱紀粛正して幕府の力を強めることに力を注いだが、最終的には暗殺された。~
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