千利休 の変更点


 [[せ]]【千利休:せんのりきゅう】茶(05)
 [[人名せ]]【千利休:せんのりきゅう】茶(05)
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 -[[茶(01)>茶]]
 -[[茶(02)>茶碗]]:茶碗
 -[[茶(03)>あがり]]:あがり
 -[[茶(04)>急須]]:急須
 -[[茶(05)>千利休]]:千利休
 -[[茶(06)>ウーロン茶]]:ウーロン茶
 -[[茶(07)>紅茶]]:紅茶
 
 
 *関係項目 [#a9001cbb]
 -[[雪駄]]・[[お好み焼き]]・[[茶]]・[[わびしい]]
 
 
 *千利休の豆知泉 [#qb644196]
 -千利休の弟子・幸兵衛が、[[小麦粉]]に[[砂糖]]を入れて焼いた物をお茶受けに出し大変好評だったため、千の弟子・幸兵衛が「千兵衛」と呼ばれるようになり、そのお菓子が[[せんべい>煎餅]]と呼ばれるようになった。(説の一つ)
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 -色の名前に「利休ねずみ色」という淡い緑っぽい灰色がある。これは利休には直接関係なく、抹茶の色から考え出された[[色]]。
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 -茶室の躙り口(入口)が狭いのは「どんな高い身分の人間でも、己が身を屈せずには入る事が出来ない」という、俗心を捨てよという教え。
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 -トンデモ説として、千利休は[[キリシタン]]で[[聖書]]マタイ伝にある「狭き門より入れ」の教えを具現化した物という説もある。
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 -茶道は持てなしの心を大切にする。茶人の丿観(へちかん)にまねかれた千利休は、門の前に落とし穴があるのを発見するが、相手の気持ちを汲んでその落とし穴にワザと落ちてやった事がある。
 
 
 *1591年02月28日 《茶道の開祖・千利休が自刃により死去》 [#k98de5c0]
 -《千利休:せんのりきゅう》は[[大阪>大阪府]]・境の商家の出身で、茶人《武野紹鴎:たけのしょうおう》に師事し、《村田珠光:むらたしゅこう》が開始した、簡素・静寂の境地を重んじる「侘び茶」の道を完成させました。~
 -千利休は最初、[[織田信長]]に仕えており、信長が主宰する茶会の茶頭として名を高めていました。~
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 -しかし、千利休が茶道の頂点として名をとどろかせたのは、織田信長の死後、[[豊臣秀吉]]の引き立てによるものが大きかったのです。~
 -豊臣秀吉は千利休に絶大な信用を寄せ「内儀の事は宗易(そうえき:利休のこと)に、公儀の事は宰相(豊臣秀長:秀吉の異父弟とされている)に任せた」と言われていた。~
 その親密な千利休と豊臣秀吉の関係が悪化していくのですが、それには現段階では諸説あります。~
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 +利休の第一の理解者だった織田信長の死。その死に関し、豊臣秀吉が関わっていたという疑惑。
 +秀吉が[[朝鮮]]出兵を企てた為、その拠点にする[[博多]]を商業地として強化したために、利休の故郷・境をないがしろにした事。
 +利休が秀吉によって得た名声を利用して、茶器の売買をはじめ、私腹を肥やしていったこと。
 +利休の娘のお吟に秀吉が入れ込んで、側女(そばめ)にしようとしたが、利休が断った。~
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 -など多くの理由が重なったものだと言われていますが、最終的には
 -秀吉は大阪城内に黄金で飾り立てた茶室を創り上げて権力を茶道を通じて誇示しようとしていたことが、利休の目指す侘び茶の精神と相容れなかったこと。~
 が、最終的な反目になったのではないか?と言われています。
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 -そして最終的に[[1591(天正19)年>1591年]].[[2月28日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=1591/02/28]]、京都・大徳寺の山門に利休が自分の木像をかかげたと知り、秀吉はその不遜さに激怒して、その木像を張り付けの刑にするという前代未聞の処置をとり、その結果、千利休も切腹をして果てることとなってしまったのです。~
 
 
 
 *更新履歴 [#zc4abfd2]
 -1999.00.00
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