青函トンネル の変更点


 [[せ]]:【青函トンネル】せいかんとんねる
 [[せ]]【せいかんとんねる:青函トンネル】
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 *イギリスまでの電車旅行 [#v22a6e1d]
 -[[北海道]]・函館と本州・[[青森県]]を繋ぐ青函トンネルは、それまでの津軽海峡を渡る[[船]]での連絡から、飛躍的に交通の便を良くしました。~
 [[トンネル]]以前は、青函連絡船「洞爺丸」の転覆事故など[[台風]]による遭難事故など多くの被害も出ました。~
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 -そんな事から、かなり早い時期からここにトンネルを掘ると言う計画が立てられていたらしく、戦前の[[1939(昭和14)年>1939年]]の段階で本格的な事業計画として津軽海峡の下をくぐるトンネルの話題が出てきます。~
 この時期は、日本の軍部の力がピークを迎えようとしてた頃で(逆に言うと、そこから終戦に向かって、墜ちていくわけなのですが)、とにかく色々な計画が立てられました。~
 この本州と北海道をトンネルで陸続きにしてしまおうと言う計画は、実はもっと壮大なものでした。~
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 -計画では、そのトンネルを出た道は、[[北海道]]を貫くようにまっすぐ宗谷まで続き、その宗谷海峡から再びトンネルになり[[樺太]]まで続くものでした。~
 さらに樺太を経由するような形で[[間宮海峡]]の下をトンネルを掘り進め、[[シベリア]]へ渡ると言うものでした。~
 計画はさらにそれだけでは終わらず、[[シベリア]]を横断する貫通道路を[[フランス]]まで伸ばし、そこから再び英仏海峡の下にトンネルを堀り、[[イギリス]]にまでつなげると言う、ちょっと冗談にしかならないような壮大な物だったらしいのです。~
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 -もちろん、その後の戦況悪化の為そんな話は立ち消えになり、戦後、平和利用の意味で青函トンネル計画が立ち上がりました。~
 とりあえず、戦後すぐの[[1946(昭和21)年>1946年]]から地質調査などが始まりましたが、調査だけで話はあまり進展しませんでした。~
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 -その後、[[1954(昭和29)年>1954年]]の「洞爺丸転覆事故」をキッカケに、多くのトンネル建設推進運動が起こり青函トンネル着工が本決まりになったのです。~
 
 *青函トンネルの豆知泉 [#n2215bbd]
 -青函トンネルの北海道側の出口は白神岬(しらかみみさき)だが、そこから船に乗って北上すると本州の大間崎(おおまざき)にたどり着くことが出来る。(正確には真北にすすめないので北東に向かって進む)~
 北海道は本州より北というイメージがありますが、実際には本州最北端の大間崎は北海道最南端の大間崎より北にあります。
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 *更新履歴 [#a3038358]
 -2001.004.17
 
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