正岡子規 の変更点


 [[人名ま]]【まさおかしき:正岡子規】
 #counter(today)
 
 *雑学 [#na5f63fd]
 -正岡子規の[[野球]]好きは有名で、一部の書籍に書かれている英語の「base-ball」を「野球」と訳したのが、正岡子規だというのは誤記。~
 それ以前から「野球」と言う言い方は存在していた。~
 「野球」と言う文字を自分の幼名のぼるに引っかけ手紙などに「野球/の・ボール」などと署名していた程度だと言う。~
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 -「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」と言う有名な句は正岡子規の作品。~
 実は正岡子規は、この句を作った時聞こえていたのは法隆寺の鐘ではなく東大寺の鐘の音。東大寺のそばの宿に泊まっている時に作ったものなのだ。~
 
 *1867年(慶応3年)0歳 [#a29ed097]
 1867年09月17日:伊予松山(現・松山市新玉町)に誕生~
 本名は正岡常規/幼名:升(のぼる)~
 
 *1880年(明治13年)12-13歳 [#qcd46683]
 松山中学に入学~
 時代は自由民権運動・国会開設要求運動の高揚期で、子規も多大な影響を受け、政治家を志した。~
 
 *1883年(明治16年)15-16歳 [#kac3e737]
 念願の上京により、須田学舎・共立学校で学ぶ~
 その後、大學予備門(一高)に入学、ここで[[夏目漱石]]と知り合う。~
 漱石のロンドン留学時代には何度も手紙を書き送る。~
 
 *1885年(明治18年)17-18歳 [#zd707084]
 秋山真之(のちに日本海軍兵の基礎を造った)と下宿。
 
 *1889年(明治22年)21-22歳 [#z0c33da5]
 [[俳句]]を本格的に学び始める。~
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 -正岡子規が当時いた松山藩ゆかりの常盤会寄宿舎には、藤野古白・河東碧梧桐・高浜虚子(16歳)などが集い、近代俳句の発祥の地となった。~
 この頃、結核で吐血し「血を吐きながらも歌う」と言われるホトトギスを意味する「子規」と言う俳号を自らにつける。~
 
 *1891年(明治24年)23-24歳 [#la68456c]
 「俳句分類」の仕事に着手~
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 -この頃から頭角を現して来た歌人に[[天田愚庵]]と言う人物がいて、正岡子規は影響を与えられる。この人物は経歴が変わっていて、なんと[[清水の次郎長]]の養子で、次郎長伝として後世に伝わっている「東海遊侠伝」の作者としても有名な、いわゆるインテリヤクザの第1号とも言うべき人物です。~
 
 *1892年(明治25年)24-25歳 [#se23b2f8]
 「瀕祭書屋俳話」(新聞「日本」掲載)~
 [関連項目:[[月並]]]~
 
 *1894年(明治27年)26-27歳 [#j32e07e4]
 この時期、日本新聞社にのちに作家になる佐藤紅緑が勤務しており、その関係で正岡子規と出逢い師事する事になる。~
 
 
 *1895年(明治38年)37-38歳 [#pf336855]
 日清戦争に従軍記者としておもむいき、帰国の船の中で吐血、それ以後は長い闘病生活に入る。~
 明治末に詩人・野口寧斎と共に「二大病詩人」と言う有り難くない名称まで授かっていた。~
 
 *1898年(明治31年)30-31歳 [#x28742ba]
 「歌よみに与ふる書」(新聞「日本」掲載)~
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 -「日本」と言う新聞に掲載するに至った理由は、正岡子規の叔父・加藤恒忠と司法省学校で同級だった陸渇南(くがかつなん)が偶然にも正岡子規宅の隣に住んでいた為に、陸の主催していた新聞「日本」に掲載する事になった。~
 
 *1890年(明治33年)32-33歳 [#lc8bb79a]
 1月2日:伊藤左千夫が自宅を訪ねて来て、正岡子規に師事し写実主義を学ぶ。~
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 -のちにここでの勉強が伊藤左千夫の名作「野菊の墓」に繋がる。~
 この当時「歌よみに与ふる書」を読み感銘を受けた歌人・長塚節も訪れ門下に入っている。~
 伊藤左千夫と長塚節はここで意気投合し、正岡子規没後もその意志を継ごうと二人で(1908年)「馬酔木/アシビ」「アカネ」「アララギ」などの雑誌を創刊・参加してゆく事になる。~
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 -[[夏目漱石]]の紹介で寺田寅彦ともこの頃、出会う。(寺田は夏目の五高講師時代の教え子)~
 8月:「山会」と言う散文の研究・文章批評の会を開催~
 同人に坂本四方太・高浜虚子などがいた。~
 
 
 *1901年(明治34年)33-34歳 [#b4dccd22]
 自らの結核の闘病記をユーモアを交えて描いた「仰臥漫録」を出版~
 「墨汁一滴」~
 「春夏秋冬(春)」~
 
 
 *1902年(明治35年)34-35歳 [#fccd39b1]
 前年の本の続編とも言える「病林六尺(子規随筆)」を出版~
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 -1902年9月19:台東区根岸にある子規庵と呼ばれる自宅で肺結核と腰部脊髄炎により午前1時過ぎに死去:享年34歳~
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 -死の前日、病床で「糸瓜咲て痰のつまり仏かな」「痰一寸糸瓜の水も間に合はず」「をととひのへちまの水も取らざりき」の絶筆となった三句を残す。~
 その2句にヘチマ(糸瓜)が描写されている事から命日を「へちま忌」と呼ぶ。
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 -墓:東京帰宅田端の大竜寺~
 
 *1903年(明治36年)没後1年 [#nbdab622]
 正岡子規の主催していた雑誌「ホトトギス」に、旧友・[[夏目漱石]]が初の長編小説『吾輩は猫である』を掲載。~
 その後も『坊ちゃん』なども「ホトトギス」に掲載される。~
 
 *1904年(明治37年)没後2年 [#t1a25d10]
 「子規遺稿・第一編・竹の里歌」出版~
 
 
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