[[人名も]]【もりのいしまつ:森の石松】
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*生年不詳 [#s4fc0eab]
-?月?日:出身地:遠江(とおとうみ)森町:現在の[[静岡県]]西部~
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-賭博のもつれが原因で人を殺してしまう。~
そこで遠江の森町太一親分から[[清水の次郎長]]にあずけられた。~
-この時代、暴れ者でヤクザの親方の手にも負えない連中は清水の次郎長の処へ預ければなんとかなると言う風潮があり、森の石松以外にも、古屋吉五郎(鬼吉)や大瀬半五郎などがいる。~
*1860年(万延1年) [#r8075453]
-次郎長が念願通り保下田(ほけた)久六を倒すことが出来たお礼に、森の石松を讃岐の金比羅へ代参させる。~
その帰り、遠江横須賀で以前から知り合いだった都田(みやこだ)3兄弟、吉兵衛(きちべえ)常吉(つねきち)梅吉(うめきち)に金を貸す。~
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-しかし、そのもつれから、堂本村のエンマ堂におびき出され、都田一家と、保下田(ほけた)久六を殺された恨みを持つ保下田一家の残党、布橋兼吉(ぬのはしのかねきち)らに斬られたと言われている。~
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-一説によると、命辛々逃げ出した石松は義兄弟の小松村七五郎に助けられ、さらに浜松にまで逃げのび、傷の手当をしたと言われている。~
しかし、逃げることを良しとしない豪傑気取りの石松は完全に直っていない体で、再びエンマ堂に戻り殺されたとされている。~
-この話が浪曲・講談で語られるときに例の有名な「[[馬鹿]]は死ななきゃ直らない」と言う言葉の語源になったとされている。~
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-※森の石松と言うと、片目で眼帯をしているというイメージが強いが、実際の石松は両目とも開いていた。~
これはどうやら、同じ次郎長の子分で、1864年の平井村の役で負傷した「三保豚松:みほのぶたまつ」との混同が元になっている。~
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-この片目のイメージと片腕のイメージは、一番最初に書かれた次郎長物語の『東海道遊侠伝:[[天田愚庵]](あまだぐあん)』ですでに、それらしき記述が出てくる。~
-ちなみに、この作者・[[天田愚庵]]は清水の次郎長の養子です。