鹿鳴館 の変更点


 [[ろ]]【鹿鳴館:ろくめいかん】
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 *鹿鳴館 [#vddd64b5]
 -[[明治時代]]になり海外からの要人を迎える際に迎賓館がなく、[[1870(明治3)年>1870年]]は浜離宮を改築した延遼館か三田にあった蜂須賀邸を使用してた。
 -[[1880(明治13)年>1880年]]に洋風の迎賓館を造ろうという事で、薩摩藩装束屋敷跡にお雇い外人ジョサイア・コンドルの設計で建築が始まった。
 -3年後、[[1883(明治16)年>1883年]]7月に落成した。
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 -1883年11月28日に1200名を招待して落成記念を行った。
 
 *鹿鳴館の豆知泉 [#n694257d]
 -鹿鳴館時代、日本人は外人のテーブルに孟宗竹の輪切りを盛り、自分たちは[[タケノコ]]の煮付をむしゃむしゃ食って見せ、日本人の[[歯]]の強さを見せつけた。
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 -学校などの[[階段]]で途中で曲がる場所を「踊り場」と呼ぶが、これは鹿鳴館時代に出来た言葉。着飾った女性が階段で曲がるときにドレスがふわりと踊っているように見えたことから。これは日本だけの呼び方。
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 -日本初の発電業者「東京電灯」が一番最初に[[電力>電気]]を配給したのが鹿鳴館。東京電灯=後の東京電力
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 -神の使者・[[鹿]]は集団で食事をする習性があるので客を招待し会食する場として鹿鳴と命名(詩経「鹿鳴の詩」から引用)。しかし英国では「Pavilion of the Deer's Cry(鹿の叫び亭)」と呼ばれていた。~
 Deer's Cryとは発情期の雄鹿の鳴き声の意味。~
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