山岡鉄舟 の変更点


 [[や]]【山岡鉄舟:やまおかてっしゅう】[[人名や]]
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 **1836年(天保7年)0歳 [#v90a2a13]
 #ref(山岡鉄舟01.jpg,around,nolink)~
 -1836年7月23日~
  出身地:江戸~
  本 名:高歩(たかゆき)~
  通 称:鉄太郎~
  父 親:小野朝右衛門(旗本)~
  母 親:磯~~
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 -幼少時より新陰流・橿原流槍術・北辰一刀流などを学び、武術に異常なほどの才能を見せたと言われている。~
 母親の磯は塚原岩見(常陸鹿島神宮)の次女で、この家系からは剣豪として名高い「塚原卜伝」を輩出している。~
 父方の小野家も武術を重んじた家系だった。
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 **1852年( )15歳〜16歳 [#n43e6db8]
 -母親の磯が死去~~
 
 **1853年( )16歳〜17歳 [#a63ef7de]
 -父親の小野朝右衛門が死去~
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 -父親は死ぬ直前に代官をしつつ蓄積していた(租税を徴収する際に私服を肥やして貯めた疑いがある)3500両の金で、鉄舟をはじめとする兄弟に旗本・御家人株を買い与えた。
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 -鉄舟は大きく成長し、この時代では異常とも言える2メートル強・体重150キロの巨漢になっていたと言われている。
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 **1856年(安政3年)19歳〜20歳 [#qc8a4f23]
 -剣を北辰一刀流千葉周作に習い、槍を刃心流・山岡静山に学び、弟子になる。~
 そして山岡静山の死去と前後し、静山の妹「英子/ふさこ」と結婚し、山岡の姓名を継ぐ。~
 山岡静山と英子の間には精一と言う兄弟がいたが、母方の高橋家を継いでいた。それが槍の名手として名高い高橋泥舟。
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 -講武所剣術世話心得を拝命
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 **1862年(文久2年)25歳〜26歳 [#k16fbf5f]
 -浪士組取締役を拝命
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 -実は剣豪として名高い山岡鉄舟だが、江戸期には清岡八郎とともに浪士隊を結成していたりするが、あくまでも脇役にすぎず、特筆すべき活躍はしていない。~
 鉄舟は出世や争いより、己の丹念に重点を置き、埼玉県蕨市と浦和市の間にある芝村の長徳寺の住職・願翁のもとで座禅を組み、剣の腕を磨いていた。~
 その腕前はケヤキの一寸板を竹刀で突き抜いたと言う伝説的な話も残されている。
 
 **1868年(慶応4年/明治1年)31歳〜32歳 [#zcdeaa46]
 -精鋭隊頭となって[[徳川慶喜]]の警護に当たる。~
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 -2月:江戸城で徳川慶喜は[[勝海舟]](45)に、江戸城明け渡しに関し全権を委た。勝海舟(45)は駿府にいる[[西郷隆盛]](40)に手紙を渡し、現状を報告しようと考える。~
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 -3月:その手紙を届ける役として山岡鉄舟が任命される。~
 本当は[[勝海舟]]としては高橋泥舟に出向いて欲しいと考えていたが、徳川慶喜が警護の側近として離したくないと拒んだ為に、山岡鉄舟に任命されたと言う経緯がある。~
 その時、山岡鉄舟は貧窮しており、実は[[武士]]の魂であるハズの刀まで手放していたので、親友・関口昆助(隆吉)に刀を借りることにし、薩摩藩の益満休之助と共に出かけた。~
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 -しかし箱根以西の街道は官軍の関所が出来ていて通ることができなくなっていた為に、最後の手段として街道一の大親分[[清水の次郎長]](48)の助けを借りる事になった。
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 #ref(山岡鉄舟02.jpg,around,nolink)~
 -駿府に滞在していた[[西郷隆盛]]に手紙を無事届ける事が出来、[[勝海舟]]との会談を周旋し、徳川家救済と江戸開城に力を尽くした。~~
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 -武勇伝としては官軍の陣を通るときに「朝敵、徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総提府へまかり通!」と大声でことわって通り、官軍の兵達はあっけに取られ手出しが出来なかった。と言う逸話が残されているが、これは後々に山岡鉄舟の武勇伝を伝えるときに、剣豪としてのイメージを作り上げる為に挿話された物と言われている。
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 -維新後は静岡藩権大参事・伊万里県知事などを歴任する。~
 静岡の駿府城で徳川慶喜の警護に当たっていた当時は、以前助けてもらった[[清水の次郎長]]とも意気投合し親しくつき合ったとされている。
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 **1872年(明治5年)35歳〜36歳 [#z4eeae8c]
 -侍従になる~~
 この時期に、和菓子屋だった木村屋が洋菓子まで扱い始めた際に、店主の木村安兵衛に「これまでは京都の[[和菓子]]をお出しすることが多かったが、純日本製の[[パン]]をお出ししたらどうか」と持ちかけ、[[あんパン]]が完成する。~
 つまり山岡鉄舟はあんパンの間接的な作者。~
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 **1874年(明治5年)37歳〜38歳 [#lb2f97f9]
 -ヤクザ家業から足を洗っていた[[清水の次郎長]](54)に、富士山麓の開墾を依頼する。~
 この時に開墾された土地が現在の富士市大渕次郎長町になった。
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 **1881年(明治14年)44歳〜45歳 [#sbcef01b]
 -宮内少輔になる。~
 後に作家になる[[天田愚庵]]を[[清水の次郎長]]に紹介し、養子縁組する。~
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 **1888年(明治21年)52歳 [#j0ab0c01]
 -7月19日:病気により亡くなる。享年52歳~~
 東京都谷中に自ら創建した禅寺全生庵に眠る。
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 -剣客として有名で、その名に恥じないほどに無骨であるが、将軍慶喜・明治天皇のいずれに対しても、意気に感じて誠実をもって応えた人です。~~
 [[勝海舟]]・高橋泥舟と共に『幕末三舟』と称される。
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