桜島 の変更点


 [[さ]]【さくらじま:桜島】[[九州]]>[[鹿児島県]]
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 *1914年1月12日・桜島が大噴火 [#s9e0c73e]
 -[[鹿児島県]]の大隅半島からさらにつきだした『桜島』。~
 陸続きで車でもわたれるこの場所が何故《島》なのか?というと、大正3年以前はその名前の通りに島だったからなのです。~
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 -それまでは大隅半島との間には4キロほどの[[海]]がありました。~
 -[[1914(大正3)年>1914年]].[[1月11日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=01/11]]のまだ夜が明ける前の午前3時40分、鹿児島地方に大きな[[地震]]が発生し、1日中続いた地震は大小あわせて百数十回にも及びました。~
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 -そして翌日、1914(大正3)年[[1月12日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=01/12]]の午前10時過ぎに、桜島の中腹8合目付近から[[新聞]]によると「天地も崩るるがごとき一大爆発音とともに大爆発」をしたのです。~
 桜島は島内に4カ所の噴火口があるのですが、その第一爆発に誘発されるように、次々と爆発を起こし、全島が溶岩流に飲み込まれました。~
 -家屋の半数以上が焼失し、島民は漁船や警察船などの救助により鹿児島本土に避難した。~
 そんな地震と大噴火と火山灰がほぼ治まったのは[[1月19日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=01/19]]でした。~
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 -この噴火で35人が死亡し、泳いで避難しようとした島民18人も行方不明になっています。~
 -家畜や農作物の被害も深刻で、被害額は全島で289万円となり、アメリカ大統領([[28代ウィルソン]])より[[大正天皇]]宛にお見舞いの[[電報]]が打たれています。~
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 -この時の溶岩がなんと4キロも離れた鹿児島県大隅半島にまで達し、現在のような陸続きになってしまったのです。(流出溶岩は推定22億t)~
 -この1月16日、噴火がひとまず収まったとして、鹿児島県知事と帝大地震学教室の大森理学博士が艦載水雷艇で桜島1周の視察を行っていますが、海水温度は32度にもなっていたそうです。~
 
 
 *桜島の噴火 [#jae3fdab]
 -桜島はそれ以前からも何度も噴火をしています。~
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 -文献として残された最も古い噴火は『続日本紀(しょくにほんぎ)』に書かれている[[764(天平宝字8)年>764年]]の物で、「埋没した民家62戸、死者80余人」と記されています。~
 その後も何度も大小の噴火を繰り返しています。~
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 [文明噴火]1471(文明3)年〜78年~
 -[[1471年>1471年]].[[9月12日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=09/12]]に始まった噴火で、北岳の北東側山腹から火山弾・火山灰等の噴出があったと記録されています。~
 その時、海面にまで突入した溶岩流の先端部が現在の大燃崎になった。(鹿児島県高免町)~
 -さらにちょうど5年後の同日[[1976年]].[[9月12日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=09/12]]にも南岳山腹が噴火しています。~
 この時に流出した溶岩は岬のように突き出し、現在の燃崎になりました。(鹿児島県持木町)~
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 [安永噴火]1779(安永8)年〜1781~
 -[[1779年]].[[10月1日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=10/01]]に、桜島南部と北東部の両山腹で大爆発が起こりました。~
 この爆発は多量の噴煙と降灰が特徴で、昼間でも真っ暗闇になったと記録されています。~
 -この噴火は翌[[1780年]]の10月頃まで続き、高免町浦之前沖で海底噴火や隆起が起こって新島等の島々ができました。~
 領主・島津重豪が江戸幕府へ提出した届書には「死者153名」と記されている。~
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 [大正噴火]1914(大正3)年〜1915(大正4)年~
 -[[1914年]].[[1月12日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=01/12]]に、南岳西側の引の平沢から溶岩は流出し、18日に小池・横山・赤水の集落を埋め尽くして海中の烏島を飲み込んだ。ちなみに烏島は文明噴火の時に出来た島。~
 南岳東部の鍋山から流出した溶岩は30日頃までに黒神・瀬戸集落を埋没し瀬戸海峡を埋め尽くし大隅半島と陸続きになった。~
 -この時に幕末の瀬戸に出来た造船所も溶岩で埋没している。ここは[[1854(安政元)年>1854年]]に日本最初の西洋式軍艦昇平丸が建造された歴史的な場所でもあり、幕末の海防論の中、横山袴腰・赤水・烏島・沖小島に砲台が築かれた。薩英戦争の舞台となった場所でもある。~
 
 
 *更新履歴 [#p150d631]
 -1999.00.00
 
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