[[人名さ]]【さかもとりょうま:坂本竜馬】
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*プロフィール [#n065bbd7]
-1835年11月15日:坂本龍馬・土佐に誕生~
1867年11月15日:坂本龍馬・32歳の誕生日に暗殺される~
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-と言っても、この日付は太陽暦に換算した物なので当時の陰暦では関係ない話です。
*1月21日 ライバルが手を結ぶ日 [#ad5379ab]
-1866(慶応2)年1月21日、長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛らが土佐の坂本竜馬らの仲介で京都で会見し、倒幕のために薩長同盟(薩長連合)を結びました。~
そのことから「ライバルが手を結ぶ日」とされています。~
*坂本龍馬の豆知泉 [#q91ae155]
-坂本龍馬がいつも遠くを見るような表情をしていた理由は、ただ単に極度の近眼だったから。
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-竜馬は西郷どんの家に遊びに行った時、スイカを持参した。
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-坂本龍馬の言葉として有名な『ドブの中でも前のめりになって死にたい』というセリフ。~
実はこんな言葉を坂本龍馬が語ったと言う記録はどこにも残されていない。~
後に書かれた物語の中で創作された「いかにも」なセリフ。~
この台詞が初めて世に出たのは当時の文書でも司馬遼太郎の小説でもなく、熱血スポーツ根性漫画『巨人の星』。~
実はあの、梶原一騎の創作したセリフだったのだ。
*坂本竜馬暗殺 [#k158723d]
-幕末に活躍していた人物の中で一番有名な人物と言うと、土佐出身の坂本竜馬を上げる人も多い。~
その龍馬は新しい日本を夢見つづけ、その夢の実現直前の1867(慶応3)年11月15日に近江屋で暗殺されてしまうというドラマチックな末期も人々の印象に残るところです。~
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-この暗殺事件に関しては犯人の特定はされていませんが、何人か容疑者は上げられています。~
その日、竜馬の隠れ家でもあった近江屋を訪れた[[武士]]が居た。その武士は「私は松代郷士だが、坂本先生にお目にかかりたい」といい、その後に4人の侍が続いたという。そして、最期に近江屋に入った男が案内に出ていた近江屋奉公人の藤吉を斬り、二階にいた坂本竜馬と中岡慎太郎がいた部屋に入った。~
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-先頭に立った男は「坂本先生、ごぶさたしております」と頭を下げた。~
竜馬は「どなたでしたかな」と訪ねるのを見たとたんに刺客は「こなくそ!」と叫びざま竜馬に斬りかかった。あまりに突然の出来事に剣の達人と言われていた竜馬も刀を抜く余裕もなく、その剣を頭に受け生涯を終えた。~
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-同室にいた中岡慎太郎も同じく斬られたのだが、重傷で数日生きながらえその時の様子を語った。しかし、その犯人に対しては見覚えが無かったと言う。~
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-この刺客に関しては「新撰組説」「京都見廻組説」が有名だが、有力候補の新撰組説は別として、見廻組説の根拠は、明治時代になって元京都見廻組だった今井信郎が政府に「自分が竜馬を斬った」と名乗り出ているため。しかし、この話は今井の売名行為だとする意見が多い。~
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-それ以外の容疑者として、その事件直後に土佐藩の中島信行が近江屋に駆けつけ、そこの女中から刺客が薩摩弁を話していたと言う証言を得たことから、[[西郷隆盛]]が関係しているのでは?と言うものもある。~
-実は竜馬と渡り合えるほどの剣の達人は、新撰組にも京都見廻組にも存在していない(新撰組で渡り合えそうな沖田総司はこの時期すでに病による療養生活に入っていた)~
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-薩摩藩には竜馬と渡り合えるほどの剣豪・人斬り半次郎(後の桐野利明)がいた。その彼が動くと言ったらその裏には[[西郷隆盛]]がいるとしか思えない。~
-西郷は多くの人の信望を集めていた人物だが、それ以上に竜馬は不思議な力で人々の信望を集めていた。その為に、新政府を自分の思い通りに動かそうと考える西郷にとって一番邪魔な相手だと思っていたのではと考えられる。さらに西郷は武器を売り込んでくるグラバーの存在がある。
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-実はグラバーは、竜馬が日本初の会社「亀山社中」を作り、長崎を中心にうまく商売をしていたために敵対していたらしい。~
その為にグラバーが西郷に入れ知恵をして竜馬暗殺に踏み切ったと言う説が存在している。~
-が、あくまでも説と言うだけで実際の犯人は闇の中なのです。~
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-険の達人とされていた竜馬が、突然だとは言え応戦する事もできずに、暗殺者に斬られたのは、刀を離れた所においてあった為。~
実は坂本龍馬と中岡慎太郎は議論をするとき、カッとしてしまうので、なるべく刀を離れた所においてから議論を始めるようにしていた。
*1867年の人々 [#z1f46cc2]
◇[[清水の次郎長]]…(47)~
◇[[ファーブル]]……(44)~
◇[[岩倉具視]]………(42)~
◇[[クラーク博士]]…(41)~
◇[[ノーベル]]………(34)~
◇[[福沢諭吉]]………(33)~
◇[[近藤勇[[…………(33)~
◇坂本龍馬………(32)没~
◇[[板垣退助]]………(30)~
◇[[徳川慶喜]]………(30)~
◇[[高杉晋作]]………(28)~
◇[[黒田清隆]]………(27)~
◇[[伊藤博文]]………(26)~
◇[[ニーチェ]]………(23)~
◇[[エジソン]]………(20)~
◇[[東郷平八郎]]……(20)~
◇[[明治天皇]]………(15)~
◇[[北里柴三郎]]……(15)~
◇[[豊田佐吉]]………(10)~
◇[[嘉納治五郎]]……(07)~
◇[[シートン]]………(07)~
◇[[新渡戸稲造]]……(05)~
◇[[泉重千代]]………(02)~
◇[[正岡子規]]………(00)~
坂本龍馬の銅像
-坂本龍馬の出身地・[[高知県]]の桂浜には坂本龍馬の銅像が建っていて、観光名所になっている。~
その銅像の坂本龍馬は右手を懐に入れているが、別にこれは[[ナポレオン]]とは関係ないのですが、どうしてこのようなポーズになったのでしょうか?~
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-実はこの銅像は1866(慶応2)年に撮影された写真が元になっているのですが、この写真で龍馬は懐に手を入れているのです。~
-実は、この写真を撮影した年の1月、伏見町奉行所配下の襲撃を受けた『寺田屋事件』が起こっています。~
この襲撃の際に、龍馬は右手の親指・左手の人差し指と親指を刀で切られたとされています。と言っても傷自体はたいした事無く、約2ヶ月ぐらい後には治ったそうです。~
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-が、龍馬はその傷をかばうことから、懐に手をいれるクセがついたとされています。~
そこであのポーズとなってしまったらしいのです。~