[[人名く]]【くにさだちゅうじ:国定忠治】
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-[[1810年>1810年]]00月00日:上州佐位郡国定村に誕生
-[[1810年>1810年]]00月00日:上州佐位郡国定村に誕生~
[[1850年>1850年]].[[12月21日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=12/21]]:処刑により死去:40歳
*赤城山の国定忠治 [#v6bddce0]
-芝居で有名な任侠ヒーロー国定忠治は[[1810(文化7)年>1810年]]、上州佐位郡国定村(現在の[[群馬県]]佐波郡東村)の裕福な農家・長岡与五左衛門の長男として誕生した。~
もともと親分肌でケンカ早かったのだろうが、17歳の時に人を殺してしまったため、家を飛び出し大前田英五郎のもとに身を寄せる事となった。~
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-そこで国定忠治という侠客として売り出し、日々血なまぐさいケンカを続け、徐々に勢力を広めていった。~
しかし25歳の時に([[1835年]])子分のケンカがキッカケで、島村伊三郎と言う侠客を謀殺した事から、信州へ逃げ身を隠すことになる。~
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-翌年、戻ってきたのだが、自分が関東取締出役から手配を受けていると知った忠治は、赤城山へ拠点を移動する。~
赤城山という人も踏み入れない山と国定村を行き来し、そこで悪事を繰り返すようになる。~
*無慈悲な殺人鬼 [#nea3dbe2]
-33歳の時に([[1843年]])、忠治は田部井(たがめい)村で大々的な賭博を開いていた。~
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-実はこの賭博場は田部井村の地主・西野目宇右衛門と共同開催で、その収益の一部が村の農地開発などに流用されていたという。今で言うなら村おこしイベント的な物だったのかもしれない。~
しかし、賭博は幕府禁止事項なのでこっそり行われていたのだが、その場所に子分の中で忠治の甥にあたる板割浅太郎だけが姿を見せなかった。~
その事が引っかかりながらも賭博を開始したのだが、突然、幕府方八州回りの手が入った。~
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-忠治はなんとかその場から濡逃げ出したが、この賭博を知る人物は板割浅太郎ぐらいしか思い当たらなかった。しかも板割浅太郎の叔父・中島勘助は十手取縄を預かっているような人物がいた。~
そこで赤城山に戻った忠治は子分達に板割浅太郎を探しだし連れて来させたのだが、板割浅太郎はそのような密告はしていないと突っぱねる。~
「その身の潔白を証明するために、中島勘助の首を取ってこい」と命令をしたのです。
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-忠治の残忍さをよく知っている板割浅太郎はその言葉のまま山を下り、真夜中、眠っている中島勘助と4つになったばかりの子供まで殺害し、首を持って赤城山へ戻った。
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-それを見た忠治はやっと板割浅太郎を許したのだが、この忠治が賭博を行っていると報告をした中島勘助とその子が惨殺されたと言うことから、忠治逮捕への手がより厳しくなって、赤城山にさえいられなくなってしまったのです。~
そのため、赤城山を下り、途中の大戸関(群馬県吾妻町)でも役人を恐喝して堂々と抜け出し、信州へ向かうことになったのです。~
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-しばらく信州で過ごした忠治は、やはり地元が一番良いと赤城山と国定村へと戻ってくる。~
そこで賭博を開き、それで生計を立てていた。~
当時の忠治には本妻おつる、妾のまち、おとく、が存在していて、それら3つの家を点々と移動して役人の目を誤魔化していたとされています。~
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-この戻ってきた忠治を援助していたのは、以前も賭博の時に力を貸した田部井村の地主・西野目宇右衛門で、忠治は収益のすべてを自分のものにするワケでなく、愛する地元のために使っていたので、地元の農民にとってもヒーローで、その為に役人が探しに来ても忠治を見付けることが出来なかったのです。~
[[1836年]]に怒った天保の大飢饉の時なども忠治のために大きな被害を出さずにすみ、さらに農地用水の設備などは、子分達総出で作業をしたとも言われています。~
*芝居とは違う、みじめな最期 [#a4414016]
-[[1850年]]、40歳になった忠治は「そろそろ足を洗って、ゆっくりと隠居生活でもするかな」と考えていたのですが、ある日、妾のまちの家で脳内出血で倒れてしまったのです。~
それがキッカケで中風になり、半身不随となってしまったのです。~
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-忠治は本妻おつるの処で養生をしようと考えていたのですが「妾の家で倒れたような亭主を引き取ることは出来ない」と拒否されてしまったのです。~
妾のまちも、おとくも引き取るのはゴメンだと断られてしまうのです。~
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-実はこの段階でも忠治がお尋ね者なのは変わらなかったので、そんな寝たきりになったお尋ね者を匿っている事がバレたら自分も危うくなってしまうからだと考えられますが、さらに弟の友蔵にも、子分にも拒否され、最終的には山の中に一軒家を建ててそこに食事などは運ぶので、寝ていてもらおうと言う事になった。~
完全に「見付けてくれ」と言わんばかりの厄介者扱いになってしまったのです。~
そんな中、西野目宇右衛門が「自分の屋敷の中に土蔵があるので、そこで匿ってもいい」と申し出たのだ。~
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-実は西野目宇右衛門はいままで忠治と一緒に賭博場などを運営してきた、後ろめたい過去があり、もし忠治が捕らえられたら自分の事もばれてしまうかもしれないと恐れての提案だった。~
土蔵に匿われたといっても、食事を与えるだけで、それ以外は一切関わりにならない状態だった為に、あの国定忠治ともあろう人物が、自らの糞尿にまみれ薄暗いほとんど陽のささない中で何日も過ごしていたそうです。~
しかし、忠治が隠れていると言う噂はどこからか役人のしる処となり、自らの足で逃げることも出来ない忠治は簡単に捕まり、江戸に護送されてしまったのです。~
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-江戸での取り調べでは、その罪状があまりにも多かった為に、ひとつひとつ検証していくのは面倒臭いと言うことで、もっとも罪が重いとされる「関所破りの刑」を適用され、はりつけ死刑となったのです。~
病に倒れた年1850年の[[12月21日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=12/21]]、国定忠治の処刑が行われた。~
忠治は一度2度、ヤリで突かれた程度では死なず、結局14回もヤリで突かれ絶命したと記録に残されている。~
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-現実的には凶悪な処が多い人物ですが、民衆の味方で権力に反発した生き方が美化され、演劇の形で民衆のヒーローとなっていきました。~
もちろん、有名な赤城山に追いつめられた忠治が刀をかざして名セリフを言うシーンは、後に書かれたものです。~
*更新履歴 [#qf106498]
-2002.00.00