亀井茲親 の変更点


 [[人名か]]【かめいよしちか:亀井茲親】
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 *赤穂浪士事件になりかけた未遂事件:1698(元禄11)年 [#v1388a23]
 -日本人なら誰でもしっている[[赤穂浪士]]の話は、赤穂藩の《浅野内匠頭:あさのたくみのかみ》がその上司である《吉良上野介:きらこうずけのすけ》の横暴さに怒り、斬りつけたことから始まった物です。~
 吉良が盛んに浅野のことを田舎者扱いしたわけですが、実はこの吉良上野介は地方から来た人間にはこの様な態度で接するのが常だったようなのです。~
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 -その為に、実は浅野内匠頭が事件を起こす3年ほど前に、まったく同じような事件が起こり掛けたことがあるのです。~
 -その3年前の1698(元禄11)年、津和野(現在の[[島根県]])を納めていた《亀井茲親:かめいよしちか》が勅使の接待役を務めており、その指導役として吉良上野介がいたのです。この関係は浅野内匠頭の時とまったく同じです。~
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 -吉良は指導者として亀井茲親に作法などを教えなければいけない立場にいたのですが、田舎者と[[馬鹿]]にして適当に扱い、常に侮辱するような言葉を使っていた。~
 -その為、亀井茲親は憤怒しながら屋敷に戻り、家老の《角沢大学:つのざわだいがく》に「[[武士]]としてあの様な侮辱は許すことは出来ぬ、明日、私は吉良を切り捨てる覚悟だ。この事を家中の者によろしく申し利かせてくれ」と心境をうち明けた。~
 -すると角沢大学はその決意を止めずに「明日は心おきなく吉良上野介を打たれよ。しかし、大切なお役目を命じられている故、明日の任務を果たしたのち、勅使の接待が終わった後で実行に移してください」と答えたのです。~
 
 
 *家老・角沢大学の機転 [#nf5ff891]
 -その夜、明日の勅使の接待と、その後のことを考え早めに寝入った亀井茲親をよそに、角沢大学は屋敷を抜け出し吉良上野介の屋敷へと出向いたのです。~
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 -そこでまず、家老に小判100両を渡し、吉良上野介と面会することになり、小判200両と反物(たんもの)数反を直接贈ったのです。~
 -そんな単純なことで、田舎者と[[馬鹿]]にしていた亀井の家老を上機嫌で迎え入れ、長らく歓談し、さらに帰り際は[[玄関]]まで見送りに出ると言うほどになったと言います。~
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 -翌朝、亀井茲親は胸の中に「今日、吉良上野介を切り捨てる」と重大な決意を抱いて登城したのですが、その当の本人である吉良上野介は昨日までの態度とは打って変わったようにニコニコしながら「早々の出仕、ご苦労でござる」などとお世辞まで言いだし、本日の勅使の接待に付いて細かい所まで指示をしたのです。~
 -その豹変した様子に驚きながらも、勅使の接待という大役を果たしたわけですが、[[狐]]にでもつままれたような気持ちで、吉良上野介を打つことも忘れ屋敷に戻ることになったのです。~
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 -そこで角沢大学は、吉良上野介の態度の変化は、昨夜[[ワイロ]]を贈ったためだと言う種明かしをし「[[金]]や[[銀]]でコロッと態度を豹変させてしまうような者は武士にして武士にあらぬ下等な人間です。あなたのような名誉ある大名が、そのような俗物に対して手を汚すのはつまらぬ事です」と話し、亀井茲親も納得の上、大感激をしたと言われています。~
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 -この家老の機転のおかげで、松の廊下の事件も起こらず、亀井家は明治維新まで大名家として続くことになったのです。~
 
 
 *亀井茲親の曾祖父 [#a1fbcb90]
 -《亀井茲親:かめいよしちか》の曾祖父は、尼子氏の家臣から身をおこした《亀井茲矩:かめいこれのり》で、亀井家の始祖。~
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 -[[豊臣秀吉]]に仕え、毛利攻めの際に手柄をたて、小大名となり、その後は海外事情に通じていることから、朝鮮の役で活躍したり、朱印船を派遣して巨利を得たりし、亀井家を築き上げた。~
 
 *更新履歴 [#q98cdb88]
 -2001.04.06
 
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