井伊直弼 の変更点


 [[い]]【いいなおすけ:井伊直弼】
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 *桜田門外の変 [#vf6db618]
 -井伊直弼(いいなおすけ)は、現在の[[滋賀県]]にあたる彦根藩35万石の藩主・井伊直中(いいなおなか)の14男として誕生しました。~
 14番目の男の子と言えば、どう考えても藩主の座や要職が回ってくるとは思えず、井伊直弼自身も青年時代から自分は一生普通に生きていくものだと考えていたのです。~
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 -しかし、一番上の兄の子供が病死した時、その才覚を見込まれ、なれるハズのなかった彦根藩主に成ってしまったのです。そして、さらに幕府の大老にまでなってしまったのです。~
 -井伊直弼はこれを幕府の恩と感じ、恩返しのために討幕の危機にさらされている幕府建て直しを考えたのです。~
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 -まず井伊直弼は全国にスパイを放ち、尊王攘夷派狩りに没頭し、公卿(朝廷の高官)・大名・志士など100人以上を捕らえる事を始めたのです。~
 その結果、[[吉田松陰]](よしだしょういん)・橋本左内(はしもとさない)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)なども有無をも言わさず死刑にしたのです。~
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 -これを「安政の大獄」と呼ぶのですが、この恐怖政治は「告げ口大歓迎」と言った[[武士]]にあるまじき行為、さらに犯した罪とは比べようがない重い罰を課すことが特徴です。~
 -たとえば父親が犯した罪のために、2・3歳の子供でさえ島流しや追放にされたことさえあります。~
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 -この時期はちょうど庶民の間ではコロリ([[コレラ]])が流行っていたこともあり、重い空気が漂う時代となりました。~
 -この安政の大獄のために、尊王攘夷運動はなりをひそめたのですが、逆にその思いを抱える人々は地下に潜り次の行動の為に柵を巡らせるようになっていったのです。~
 -そしてついに1860(万延元)年03月03日、桜田門外の変が起こり、そこで水戸・薩摩の浪士18人の襲撃に遭い井伊直弼は暗殺されてしまします。~
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 -その恐怖政治から開放された浪士たちは、それまで以上に幕府打倒の動きを活発にして、日本は新しい時代に向かっていくことになるのです。~
 
 *関連項目 [#nd628de9]
 -[[招き猫]]
 
 *更新履歴 [#a83554c1]
 -2000.00.00
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