マッカーサー の変更点


 [[人名ま]]【ダグラス・マッカーサー】Douglas MacArthur
 [[人名ま]]【ダグラス・マッカーサー】[[Douglas MacArthur>マッカーサー]]
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 -[[1880年01月26日>http://tisen.jp/hbd/query.php?KeyDate=1880/01/26]]:アメリカ生まれ~
 1964年04月05日:84才で死去
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 誕生:[[1880年01月26日>http://tisen.jp/hbd/query.php?KeyDate=1880/01/26]]:アメリカ生まれ~
 死去:1964年04月05日:享年84
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 *マッカーサー [#kfed02c0]
 ※[[1945(昭和20)年>1945年]].[[9月29日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=09/29]]:各[[新聞]]が[[天皇>昭和天皇]]とマッカーサーが並ぶ[[写真]]を1面トップに掲載。政府は即日発売禁止を命令するが[[GHQ]]が発禁撤回を指令
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 -マッカーサーの父親に会った誰もが「この人以上に傲慢な人はいないだろう」と思ったという。その息子に会うまでは…。
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 -マッカーサーは8歳になるまで母親の言いつけで[[スカート]]を履いて育った。 本当は女の子が欲しかったため。
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 -マッカーサーの母親は異常な過保護教育ママで、陸軍士官学校に在学した4年間、宿舎のすぐ隣にある[[ホテル]]に滞在して、息子の身の回りの世話をしていた。
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 -母親は軍隊に入った後も、上司達に何度もおべっかの[[手紙]]を書き、息子を早く元帥に昇進させてやってくれと頼み込んでいた。
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 -マッカーサーというとコーンパイプをくゆらせている姿がイメージされる が、心理学的には[[煙草]](特に[[パイプ]])を手放せないのは幼児性の象徴だと指摘されている。
 
 
 *実は男らしくなかった… [#vd308671]
 -[[第二次世界大戦]]が[[天皇]]による玉音放送というかたちで終結した1945(昭和20)年[[8月15日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=08/15]]から、15日後の[[8月30日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=08/30]]、連合軍最高司令官のダグラス・マッカーサーが厚木基地に到着した。~
 それ以降、約40万人の[[占領軍>GHQ]]が日本へ駐留し、マッカーサーは戦後日本で強力な統治を推進してゆくことになる。~
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 -当時の印象でマッカーサーと言うと、常にコーンパイプをくゆらせて実に威圧的で、恐ろしいイメージがあったのだが実はマザコンだったと言われている。~
 実際、陸軍士官学校に在学した4年間、母親が宿舎のすぐ隣にあるホテルに滞在して、マッカーサーの身の回りの世話をしていたと言う。~
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 -実は心理学では煙草(特にパイプ)を手放せないと言うのは幼児性の象徴だと指摘されている。~
 もっともマッカーサーの場合は、女の子が欲しかった母親が幼年期にずっと女の子の服を着せて可愛がっていたという過去があるので、それも影響しているとも言われている。~
 
 *8月30日 マッカーサー進駐記念日 [#nac64293]
 -1945(昭和20)年8月30日、連合国日本占領軍最高司令官・ダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着しました。~
 
 *マッカーサー年譜 [#ab3e97f9]
 1880年01月26日:0歳~
 アメリカ・[[アーカンソー]]州リトルロックでダグラス・マッカーサー誕生~
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 1914年(大正3年)~
 [[第一次世界大戦]]に師団参謀長として従軍~
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 1917年(大正6年)~
 レインボー師団を率い手フランス前線へ~
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 1918年(大正7年)~
 第一次世界大戦終結~
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 1930年(昭和5年)~
 11月20日/第一次世界大戦が終結し陸軍参謀総長に昇格する。~
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 1932年(昭和7年)~
 05月29日/第一次世界大戦の退役軍人1万人以上がボーナス即時支給を求めワシントン市内で野営を開始する。~
 06月17日/デモが暴徒に発展し、警察と衝突しはじめる。~
 07月28日/野営をマッカーサー陸軍参謀長が指揮する連邦軍が催涙ガスなどを用いて強制排除。~
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 1935年(昭和30年)~
 アメリカ陸軍参謀総長を退任~
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 1941年(昭和16年)~
 アメリカ極東陸軍司令官として現役に復帰。~
 10年04日/アメリカ極東軍のマッカーサー司令官と、イギリス極東軍のホバム司令官がマニラで対日戦について協議。~
 12月8日/日本軍の[[真珠湾]]奇襲がキッカケで第二次世界大戦が始まる。~
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 1942年(昭和17年)~
 03月11日/マッカーサー極東軍司令官がフィリピンのコレヒドール要塞を脱出、[[オーストラリア]]へ向かう。「アイ シャル リターン」~
 03月18日/マッカーサーに西南太平洋連合軍司令官に就任決定~
 04月19日/西南太平洋連合軍司令官に正式任命~
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 1944年(昭和19年)~
 10月18日/日本軍(大本営)が[[フィリピン]]方面で決戦を挑む「捷1号」作戦命令・陸軍主力を投入。~
 10月20日/アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸。マッカーサーがフィリピン市民に決起を呼びかける。~
 10月24日/レイテ沖海戦で、連合艦隊の突入作戦が失敗。日本軍は「武蔵」「瑞鶴」など30隻を失い、連合艦隊は事実上消滅する。~
 10月25日/海軍神風特別攻撃隊(特攻隊)の敷島隊がレイテ沖で初めて体当たり攻撃をする。それによってアメリカ空母を撃沈する。~
 *このフィリピン・レイテ沖海戦でマッカーサー元帥は、ヨーロッパ戦線でのアイゼンハワー元帥と並んで、アメリカが産んだ第二次世界大戦の英雄となった。~
 *この日から終戦までの約9ヶ月の間に陸軍の特攻隊は約300回出撃し、2500人が戦死した。~
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 1945年(昭和20年)~
 02月07日/マッカーサー元帥が3年ぶりにマニラに帰還。~
 07月05日/マッカーサー元帥がフィリピン全土の解放を宣言する。~
 08月30日/マッカーサー元帥が来日~
 天皇陛下の玉音放送から15日後の1945年(昭和20年)8月30日、日本を占領した連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が愛機バターン号から厚木飛行場に降り立った。~
 トレードマークとなったコーンパイプをくわえたその独特の姿をはじめて日本人の前に現した。~
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 -「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても先頭はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(東京)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復は不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する。(朝日新聞:1945.8.31)」
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 この日から6年間日本に駐在したマッカーサーは日本国内に数々の改革を持ち込み、戦後日本の体制を決定づけた。~
 08月30日/マッカーサー元帥が厚木飛行場に上陸~
 09月02日/GHQ指令第1号「軍需生産全面停止」~
 マッカーサー指令第1号「38度線を酒井に在朝日本軍の米ソ各軍への降伏指令」~
 09月09日/マッカーサーが間接統治・自由主義助長など「日本管理方針」を発表。~
 09月27日/昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問~
 09月29日/各新聞が天皇と元帥の写真を掲載する。が、日本側の情報局が不敬に当たるとして発禁命令を出す。しかしGHQが撤回させる~
 10月04日/近衛文麿がマッカーサーと会見し「憲法改正につき近衛の指導の必要を示唆された」と思うと発言~
 10月11日/マッカーサーが民主化の為の五大改革を指令~
 「婦人の解放」~
 「労働党結成奨励」~
 「学校教育の自由主義化」~
 「秘密審問司法制度の撤廃」~
 「経済制度の民主主義」~
 10月14日/マッカーサー・トルーマン会談~
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 1946年(昭和21年)~
 03月06日/政府:憲法改正草案要綱を発表~
 マッカーサーが全面支持を表明/主権在民・象徴天皇・戦争放棄~
 06月22日/GHQ:米国をはじめとする戦勝国の漁業に悪影響を与えないよう制限していた日本の漁業水域を拡張(第2次マッカーサー・ライン)~
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 1948年(昭和23年)~
 12月19日/マッカーサー:[[吉田茂]]首相に経済安定9原則も関しての書簡を送付~
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 1949年(昭和24年)~
 07月04日/マッカーサー元帥、「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明~
 12月25日/マッカーサー元帥が戦犯に特赦令を発表~
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 1950年(昭和25年)~
 01月01日/マッカーサー元帥、日本の自衛拒否権否定せずと言明~
 朝鮮戦争の際に、中国攻撃を主張してトルーマン大統領と対立する。~
 06月06日/マッカーサー元帥:共産党中央委員全員の公職追放命令~
 07月08日/マッカーサー:警察予備隊の創設を指令~
 隊員数7万5000人で出発(→自衛隊)
 06月29日/朝鮮戦争勃発5日目、ソウル南30岐路の水原飛行場に到着。~
 朝鮮戦争南軍の視察。~
 12月24日/ワシントンへ朝鮮戦争を勝利に導くため、原爆使用を要求する暗号電報を打つ。~
 ソ連・中国が支援する北軍が侵攻しているのを阻止するために、ソ連のウラジオストック・ウスリースク・ハバロフスク、中国の旅順・北京・大連などに原爆を投下するように要求。~
 アメリカも一時はその考えも視野にいれたが、結局トルーマン大統領の思惑と、国連の指導により、その案は却下されてしまった。~
 噂では、マッカーサーは極東に於ける「日本の完全制圧」と「朝鮮戦争の終結」と言う手柄を持って、1952年の大統領選挙に出馬する予定だったのでは?とも言われている。~
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 1951年(昭和26年)~
 04月11日/マッカーサー元帥:極東の全指揮権を解任~
 前年の朝鮮戦争の際トルーマン大統領と対立した事がきっかけで、日本占領連合軍最高司令官を解任される。~
 04月16日/マッカーサー日本を去る(日本滞在5年8ヶ月)~
 04月19日/アメリカ議会で「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と発言~
 05月05日/マッカーサー、米上院聴聞会で「日本人の成熟度は12歳、勝者にへつらう傾向」と発言~
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 1964年(昭和39年)
 04月05日/入院先のワシントン・ウォルターリード陸軍病院で死去~
 腎臓および肝臓の機能障害が死因/享年84~
 昭和天皇はアメリカ大統領あてに弔電を送り、吉田茂首相が特派大使として葬儀に参列した。~
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 2000年(平成12年)~
 02月23日/ジーン・マッカーサー(マッカーサー元帥夫人)死去/享年101~
 
 
 *更新履歴 [#zf97ff39]
 -2003.03.01.知泉
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