クラーク博士 の変更点


 [[く]]:クラーク博士(くらーくはかせ)
 #counter(today)
 
 *クラーク [#v0e87ed1]
 -[[1826年]]7月31日:アメリカ・[[マサチューセッツ州]]アッシュフィールド生まれ~
 アマースト大学卒業後、ドイツ、ゲッティンゲン大学で博士号を取得。~
 帰国後、母校の教授などを務める。
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 -[[1867年]]:マサチューセッツ農科大学の学長に就任。 ~
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 -[[1876年]]:[[北海道]]開拓使長官[[黒田清隆]]に招かれて来日。~
 北海道大学の前身である札幌農学校の草創期に教頭として活躍した。~
 8ヵ月という短期間に、キリスト教的感化によって佐藤昌介、大島正健、中島信之、[[内村鑑三]]、[[新渡戸稲造]]、宮部金吾などの直接間接の弟子を育成した。~
 決別に際して学生たちに残した"Boys. be ambitious."という言葉とともに、その徳化は長く日本の教育界に伝えられている。~
 しかし帰国後は不遇のうちに過した。
 -[[1877年]]04月16日:帰国
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 -[[1886年]]3月9日:[[アメリカ]]・アマーストで死去。~
 
 *大志をいだけ? [#n4a36b7e]
 -札幌農学校(現在の北海道大学)の初代校長、ウィリアム・S・クラーク~
 一般的に多くの人にしられるのは、日本を離れる直前に教え子たちに言った「少年よ大志をいだけ・ボーイズ ビー アンビシャス/Boys. be ambitious.」と言う名言。~
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 -クラーク博士のBoys be anvicious ! は一般的に訳される「少年よ大志を抱け」という大げさな物ではなく続きにLike this old manとあって「こんなオッサンも頑張っているんだからオマエらも頑張れ」ぐらいの言葉
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 -という雑学はそこそこ有名だが、実際に Boys be anvicious ! と語ったとする文献はクラークが帰国してから17年も経ち、死後8年も経過した[[1894年]]に予科生徒・安東幾三郎が農学校の学芸会機関誌「恵林」に掲載した文章が最初。
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 -クラークの教え子で別れに立ち会ったハズの内村鑑三や新渡戸稲造などがクラークの事を書いた文章の中には出てこない。内村鑑三はクラークの死後、アメリカの[[新聞]]に寄稿しているがその言葉には全く触れていない。
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 -実際の教え子の一人、大島正健は後に講演の中で「Boys be anvicious ! 的なニュアンスの事は言った」とは語っていた。(クラークは8カ月しか滞在せず、教え子も第一期生16人のみ)
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 -安東が書いた文章は『暫くにして彼悠々として再び馬に跨り、学生を顧みて叫んで日く「小供等よ、此老人の如く大望にあれ」と。一鞭を加へ塵埃を蹴て去りぬ』(Boys, be ambitious like this old  man.)とかなり芝居がかった内容。
 -安東が書いた文章は『暫くにして彼悠々として再び馬に跨り、学生を顧みて叫んで日く「小供等よ、此老人の如く大望にあれ」と。一鞭を加へ塵埃を蹴て去りぬ』(Boys, be ambitious like this old  man.)とかなり芝居がかった内容。~
 実際のクラークは港で生徒と別れたので、この文章は架空の話。安東幾三郎もその場に立ち会ったワケではない。
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 -その後、[[1898年]]に学芸会が「札幌農学校」という本を発行した時に創始者クラークの言葉として巻頭にこの言葉を掲げ一気に有名になる。その後、軍事的指導の意味もあり「少年よ大志を抱け」が一人歩きをする。
 
 *4月16日 ボーイズビーアンビシャスデー [#a73fd31a]
 -1877(明治10)年4月16日、札幌農学校(現在の北海道大学農学部)の基礎を築いた教頭・クラーク博士が、「Boys,be ambitious!(少年よ、大志を抱け)」という有名な言葉を残して[[北海道]]を去った日を記念したメモリアルデーです。~
 
 
 *更新履歴 [#qd8e3ba1]
 -知泉No.116/2000.01.21
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