毛利元就 のバックアップ(No.2)
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- 毛利元就 へ行く。
- 1 (2006-07-10 (月) 00:31:38)
- 2 (2006-11-28 (火) 10:58:36)
人名も【もうりもとなり:毛利元就】
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- 1497年03月14日:誕生
1571年07月06日:74歳で死去
三本の矢 †
- 昔からよく知られる戦国武将のエピソードの中で、毛利元就の「3本の矢」と言う話は兄弟などの団結力を意味するものとして、色々な処で引き合いに出される物です。
- その話は、毛利元就が死を悟った時、3人の息子《毛利隆元:たかもと》《吉川元春》《小早川隆景:たかかげ》を呼び寄せた。そうして、まだ幼かった兄弟に向かって一本づつ矢を差し出し「これを折ってみなさい」と言った。
その矢を渡された三人はいとも簡単に矢を折ったのですが、次に元就は三本の矢を束ねて差し出し「それでは、この三本の矢をまとめて折ってみなさい」と言ったのです。 - しかし、今度は誰にも折ることができない。そこで元就は「一本づつならばいとも簡単に折れる矢だが、三本にまとまると簡単に折ることは出来ない。お前達も三人で心と力を合わせればどんな困難にも、敵にも負けることはないのだ」と諭したという、実に判りやすく深い話だったりします。
- しかし現実に戻ると、毛利元就が亡くなった時に、末っ子だった三男・小早川隆景はすでに39歳になっていた。
さらにもっと不可解なのは、長男の毛利隆元は父親の元就よりもっと先に亡くなっていたりするのです。
実はこの話は、江戸時代に講談師が勝手に造り上げたエピソードらしいのです。
更新履歴 †
- 2000.08.12
毛利元就が厳島で大勝! †
- 1555(弘治元)年10月1日《毛利元就:もうりもとなり》は厳島でわずか4千人の軍隊を率いて、《陶晴賢:すえはるかた》の2万人の軍隊に圧倒的な勝利をしました。
- 毛利家は中国地方の大名で、尼子家と共に《大内義隆:おおうちよしたか》に仕える大名だったのです。
しかし1551(天文20)年、大内義隆は家臣だった陶晴賢に倒され、その結果大内家の支配していた領土の実権が陶晴賢に移ってしまったのです。 - そこで忠臣を誓う毛利元就は陶晴賢を倒すことを決意するのですが、陶晴賢の抱える大軍にまともにぶつかったのでは到底敵わないことは目に見えていたのです。
そこで奇襲作戦を考え出したのです。
- まず、その作戦のために毛利元就は厳島(いつくしま)の北岸の宮尾に築き、その上で「宮尾につくった城は完全に失敗だ、あそこを攻められたらひとたまりもない」と言う噂を陶晴賢の周辺に流したのです。
そしてそれを真に受けた陶晴賢の軍は2万人に及ぶ大軍を厳島に上陸させたのです。
- その上陸は計算済みで、それに合わせた形で9月30日の夜、毛利元就の主力軍3千人は大雨の中を敵前に上陸し、同時に味方に付いていた《小早川隆景:こばやかわたかかげ》の率いる兵も上陸しました。
- そして夜明けと同時に宮尾城からも兵が出陣し、結局、陶晴賢の2万兵は厳島の地形によって狭い場所で三方から挟み撃ちにされた形になってしまい、進退窮まってしまったのです。その結果、追いつめられた陶晴賢もその場で自害して果ててしまったのです。
これが、日本史上もっとも鮮やかだと言われる頭脳作戦、4千対2万の厳島の戦いです。
更新履歴 †
- 2000.09.15