本能寺の変 のバックアップソース(No.1)

[[ほ]]:本能寺の変(ほんのうじのへん)
#counter(today)
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+[[織田信長(01)>織田信長]]
+[[織田信長(02)>織田信長の年譜]]:織田信長の年譜
+[[織田信長(03)>本能寺の変]]:本能寺の変
+[敵は本能寺にあり][天王山][三日天下]~
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*犯人は誰? [#h6cd18cf]
#ref(http://tisen.jp/tisen/g02/90780.gif,around,nolink)~#clear
-[[明智光秀]]が『敵は本能寺にあり!』と言い放ち、それまで主君としてきた[[織田信長]]をうち倒した話は史実としてお馴染みのものです。~
しかし、この織田信長が倒された本能寺の変には明智光秀は関わっていないと言う説も存在しています。~
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-本能寺の変が起こったのが1582(天正20)年6月2日の午前4時という早い時間で、本能寺から火の手があがったのが午前7時から7時半までの間とされています。~
その時の明智光秀一行の行動記録は本能寺の変より三日前の5月28日に愛宕山に登って一泊している事が解っています。(この年の5月は29日までしか無かった)~
通説では翌29日に下山して本能寺へと向かったとされているのですが、それはどうも不可能だったのでは?と考える人もいます。~
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-なぜならば《権中納言山科言経:ごんのちゅうなごんやましなときつね》が記録していた日記『言経卿記』などの複数の文献には、この日の愛宕山周辺の天候はどうしようも無いほど[[雨]]が激しく降っており、とても下山できたとは思えないのです。~
さらに『言経卿記』の中では明智光秀一行は6月1日午前9時に上洛したと書かれていて、本能寺へ翌日の午前4時に行くことは不可能と見られるのです。~
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-と言うことで、一部の歴史学者の中では真犯人探しが行われていますが、もっとも怪しいとされるのが事件に対して異常とも言えるほど迅速に行動を起こして、その騒ぎを静めた[[豊臣秀吉]]です。~
それ以外にも天下を取ろうとしていた武将が大勢いた時代なので、[[徳川家康]]にも疑惑の目が向けられています。~
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-あとは《[[細川幽斎]]:ほそかわゆうさい》《[[細川忠興]]:ほそかわただおき》の親子も怪しいとみる説もあります。~
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-あくまでも明智光秀が犯人ではなかったと言うのは説のひとつですが、歴史のミステリーはまだまだたくさんあります。~
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*敵は本能寺にあり [#a9521c89]
-天下を掌握しつつあった織田信長と言うヒーローが、その身内によって倒されて、勢力地図がガラッと変わってしまったこの事件は、歴史上にのこる重大事件でした。~
その為に、これに関した講談や本なども多く登場し、さらに多くの言葉を生んでいます。~
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-まずは「敵は本能寺にあり」と言う言葉ですが、これは織田信長より備中国(現在の[[岡山県]]西部)の毛利軍を攻めている豊臣秀吉の援軍を頼まれていた明智光秀が、途中で謀反を起こし織田信長の滞在していた京都の本能寺に向かう際に叫んだとされる言葉ですが、現代でも「本当に闘うべき相手は!」と言う時に使われたりします。~
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*天王山 [#fb2c9a53]
-明智光秀によって主君・織田信長が殺されたと言う[[ニュース]]を聞かされた豊臣秀吉は、毛利軍を攻めるのを中断し、京都へと急遽戻った。~
そして明智光秀の軍を山崎([[京都府]]乙訓郡)で待ちかまえて討つことにした。~
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-この時に戦略の要になったのが、現在の京都府乙訓郡大山崎町にある《天王山:てんのうざん》と言う山で、淀川を挟み、男山に対峙し、京都へ入ってくるためには必ず通らなければいけない道があったのです。~
結局、この秀吉と光秀の戦いは山の有利な場所を占領した方が勝ちと言うことで、秀吉はその天王山を手中に収め、明智光秀軍を徹底的につぶすことに成功した。~
そんな事から、最終決戦をする場所などを《天王山》と呼ぶようになったのです。~
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*三日天下 [#ub66159c]
-結局、明智光秀は天下を収めつつあった織田信長を倒したことにより、自動的に戦国武将のチャンピオンになったのですが、その天下も秀吉に倒されるわずかの間だけだったということから、きわめて短期間しか頂点に立てないような人のことを《三日天下》などと呼ぶようになりました。~
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*6月2日 うらぎりの日 [#gf26e2ef]
-1582(天正10)年6月2日、本能寺の変で、織田信長が明智光秀にうらぎられて攻められ、本能寺で自害しました。~
中国の毛利攻めに難儀している羽柴秀吉の応援を命じられた明知光秀は、進軍の途中で道を変更し、本能寺の織田信長を襲いました。襲撃を知った信長は近侍の森蘭丸に誰の襲撃か尋ね、光秀ときくと「是非もなし」とこたえて自害したと、『信長公記』に伝えられています。~
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-生前好んで歌い舞った『敦盛』の一節に「人生五十年」とあり、自害したときの信長は49歳(数えで50歳)でした。~
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*更新履歴 [#g32d33d1]
-2001.06.10.知泉
-2001.06.25(三日天下).知泉
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