平塚らいてう のバックアップ(No.2)


人名ひ【ひらつか らいちょう:平塚らいてう】

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1886年(明治19年)0歳

  • 2月10日:出身地:東京生まれ
         本 名:奥村明(おくむらはる)
         学 歴:日本女子大学家政学科卒業

1908年(明治41年)21歳〜22歳

  • 3月:新進画家の森田草平と恋愛の末、塩原温泉で情死を図った「塩原心中未遂事件」を起こす。

1911年(明治44年)24歳〜25歳

  • 9月1日雑誌「青鞜/せいとう」創刊
    創刊の辞「元始女性は太陽であった」で始まる、女流文芸誌として世の中から「新しい女性の出現」として注目を浴びる。
  • 同人として野上弥生子・水野仙子・茅野昌子・長沼智恵子(高村光太郎夫人で智恵子抄の主人公)・岡田八千代・国木田治子(国木田独歩夫人)・小金井喜美子(森鴎外妹/小金井良精夫人)・瀬沼夏葉・与謝野晶子?・田村俊子・森しげ子(森鴎外夫人)・長谷川時雨などが居る。
  • 少し遅れて参加したメンバーには伊藤野枝・神近市子・岡本かの子?(岡本一平夫人/岡本太郎の母)原阿佐緒・三ヶ島芳子などがいる。
    夫人解放運動の中心的存在として評論、翻訳などを執筆

1913年(大正2年)26歳〜27歳

  • 評論集『円窓』が家族制度批判と婦人の独立を論じたために、世相と逢わず危険思想として発禁処分となる。

1914年(大正3年)27歳〜28歳

  • 画家の奥村博史と同棲生活にはいり、あえて入籍を行わなかった事からニュースになった。
    この時、雷鳥をしたって集まってきた女性の間から不満の声があがり、グループ内に不協和音が流れ始める。それを感じた奥村が自ら手を引くことを決意する。
  • その時の手紙の内容から「若いツバメ」と言う流行語が誕生する。

1918年(大正7年)31歳〜32歳

  • 画家の奥村博史と結婚

1920年(大正9年)33歳〜34歳

  • 市川房枝(政治家)・奥むめお(後の主婦連.初代会長)たちと、婦人と母と子供の権利の擁護をスローガンに『新婦人協会』を結成。婦人参政権運動などで活躍する。

1930年(昭和5年)43歳〜44歳

  • 高群逸枝たちの無産婦人芸術連盟に参加

1953年(昭和28年)66歳〜67歳

  • 「日本婦人団体連合会の会長に就任
    その後は、国際民主婦人連盟副会長なども勤め、婦人運動の歴史に大きく貢献した。

1970年(昭和46年)84歳〜85歳

  • 5月24日:午後10時36分、東京・千駄ヶ谷の代々木病院で胆嚢道癌のため死去
         享年85歳
    墓は神奈川県川崎市生田の春秋苑

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