仏教 のバックアップ(No.2)


:仏教:ぶっきょう


伝来第一号の仏像はどこに?

  • 日本に中国経由でインドから仏教が伝わったのは『日本書紀』に、552年と書かれている。
    《百済:くだら》の聖明王が使者を遺した際に、教典だけでなく仏像・仏具一式もセットにして贈ってくれたのが、日本における仏教の始まりとされているのです。
    この仏教伝来に関しては『日本書紀』の記述より古い538年にすでに最初のものがやってきたという説もありますが、とりあえずこの時期に仏教は百済より伝来したのは事実です。

  • この日本へ初めて伝来した時の仏像などはさぞかし大事に扱われて、現在でも国宝として奉られているのではないか?と思ってしまいますが、実は現存してはいません。
    多くの仏像や寺院などは、その後の政変や戦乱によって焼失していますので、やはりその仏像もそのような数奇な運命の果てに・・・とも考えてしまいますが、実はそんな立派な理由で無くなったのではありませんでした。
    仏教が百済より伝来した時に日本を治めていたのは《欽明天皇:きんめいてんのう/510-570》でしたが、日本にも古来よりの神々信仰が存在していたので、最初は百済より押しつけられたような仏教と言うものの扱いに困ってしまいました。

  • その時に側近だった《蘇我稲目:そがのいなめ》は「西方の国々はみな、この仏教と言う物を受け入れているのですから、我が国もそれに倣うべきです」と進言したのです。
    それとは逆に《物部尾輿:もののべのおこし》《中臣鎌子:なかとみのかまこ》などは、「外国の神などを信仰したら、日本古来の神々の怒りを買うことになる」と猛反対をしたのです。

  • そこで欽明天皇は仏教賛成派だった蘇我稲目に「それでは試しにお前が信仰してみろ」と実験台になるように命令したのです。
    そこで蘇我稲目は仏像を預かり、その日から自らの家を《寺》と言うことにて安置し、礼拝を始めたのです。
    しかし、それとはまったく関係なくその頃より都には疫病が流行りはじめてしまったのです。

  • そうなると黙っていないのが反対派だった物部尾輿や中臣鎌子で「ほら見たことか、よそ者の神なんぞを拝んだりした為に、我が国を守ってくれていた神々がヘソ?を曲げたに違いない」と言い出したのです。
    そこで、欽明天皇は蘇我稲目に『その仏像を処分せよ』と命じ、蘇我稲目もそれに従い、日本伝来第一号だった仏像を難波の堀江に捨てたといいます。

  • 『元興寺縁起』では若干最後は違うようで、蘇我稲目は死ぬまで仏教を信仰し続けたのですが、その死後、周囲の人々の手によって難波の堀江に仏像は捨てられたとされています。

  • それから数年後、《敏達天皇:びだつてんのう/538-585》の時代(在位572-585)に、第二回目の仏像伝来があったらしいのですが、その仏像の運命もまったく同じで、難波の堀江に捨てられてしまったと記録されています。


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