徳川家光 のバックアップの現在との差分(No.1)


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 [[と]]:徳川家光
 [[人名と]]【とくがわいえみつ:徳川家光】[[徳川家]]
 #counter(today)
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 +[[徳川家光]][1]女性恐怖症?~
 +[[徳川家光>武家諸法度]][2]武家諸法度~
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 *1629年09月06日 徳川家光が「武家諸法度」を改正 [#k08f2e7c]
 -徳川3代将軍・家光は海外との交流を打ちきり(鎖国)、地方大名の力を抑える為に参勤交代と言うシステムを考案した、徳川諸軍の中でも英主と評価される人物だった。~
 1629(寛永6)年9月6日がその「武家諸法度」を家光が改正した日です。~
 [[1629(寛永6)年>1629年]].[[9月6日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=09/06]]がその「武家諸法度」を家光が改正した日です。~
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 -しかし、すべての実権を将軍が把握するようなシステムにしたのだが、才能と知力のあった家光の時代には掌握できていたが、その子供の4代将軍・家綱にはちょっと荷が重すぎて、結局それらを掌握しきれずに老中などの側近に任すようになってしまい、その後の幕府政治が乱れてしまうキッカケを作ってしまったとも言われている。~
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 -徳川家光は仕事をキッチリこなせる有能な人物だったが、プライベートでは身体が弱く甘えん坊だったと言われている。そのために、成人してからも乳母として自分の面倒を見てくれていた[[春日の局]]を常に頼りにしていたと言う。実は外弁慶で甘えん坊のお坊ちゃんだったのです。~
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 -さらに文献を説いていくと徳川家光と言う人物は躁鬱病だったのでは?と思わせる記述もある。特に30歳をすぎた頃からは、時々表御殿に出ない事もあり、中奥で小姓たちに囲まれてふさぎ込むこともあったらしい。今のことばで言えば「引きこもり」みたいな状態なのです。~
 そんな家光を見た小姓たちは、能・狂言を見に行こうと誘ったり、鷹狩りをしようと発案したりしたと言う。~
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 ※「鎖国」と言う言葉は、幕末になって「開国」と言う言葉が海外の文献を訳した時に作られ、その対語として使われるようになった言葉。~
 したがって、この当時は「鎖国」と言う言葉は使われていなかったと言われる。
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