大杉栄 のバックアップ(No.3)
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- 大杉栄 へ行く。
- 1 (2006-03-03 (金) 17:03:42)
- 2 (2006-03-11 (土) 17:55:15)
- 3 (2006-06-26 (月) 22:42:21)
人名お:大杉栄:おおすぎさかえ
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大杉栄 †
- 1885(明治18)年01月17日・香川県丸亀市
少年期を新潟県新発田市で過ごした後、実家のあった名古屋の幼年学校に入学する。
1901(明治34)年・中退
- その後、東京学院・順天中学を経て、1903(明治36)年、東京外国語学校仏文科に入学し、キリスト教の受洗を受ける。
この頃、足尾銅山鉱毒事件の被害民救援運動に触れて、社会的な視野を開くようになる。
- 1905(明治38)年・反戦を訴える《幸徳秋水?:こうとくしゅうすい》や《境枯川?:さかいこせん/境俊彦》らの『平民社』に共鳴し、社会主義運動に傾倒する。
電車賃値上げ反対運動で初めて入獄を経験する。
日本エスペラント協会の設立や『家庭雑誌』の編集に従事したのもこの当時。
- 1908(明治41)年・山口義三(狐剣)の出獄歓迎の集会に端を発した「赤旗事件」で入獄。
その間に、『大逆事件』が惹起され幸徳秋水が検挙され、1911(明治44)年に処刑される。
この事によって、大杉栄は運動の中心人物となっていく。
- 1912(明治45)年・《荒畑寒村?:あらはたかんそん》と『近代思想』ついで『平民新聞』を創刊。
同時に、近代思想社小集やサンジカリズム研究会を主宰して、大正以降の運動を先導した。
- 1916(大正5)年11月、自由恋愛の実践と批判された三角関係により、《神近市子:かみちかいちこ》による刃傷沙汰《日陰茶屋事件/葉山事件とも言う》に巻き込まれるが、これを期に大杉は離婚をし、伊藤野枝と家庭を持つことになる。
- 1920(大正9)年・日本社会主義同盟の創設に参加。この当時、ロシア革命に強い関心を示すが、否定的評価を下していた。
- 1923(大正12)年・ベルリンで開催される無政府主義者大会に出席する為に、密出国をする。
ヨーロッパに渡ったが、パリ近郊の行われたメーデーに参加、そこで演説をして検挙され、強制送還される事になった。
帰国するが、船が神戸に着いた時には社会主義者たちのヒーローとなっていて、凱旋帰国のような歓迎ぶりだったと言う。
その後、無政府主義者(アナーキスト)の自由連合組織を画策するが、関東大震災から3週間後9月16日に虐殺される。
更新履歴 †
- 2000.00.00.知泉