鼠小僧 のバックアップ(No.1)


:鼠小僧(ねずみこぞう):日本人名・な?

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義賊・鼠小僧次郎吉

  • 義賊として鼠小僧次郎吉が有名になったのは1857(安政5)年 正月に江戸の市村座で『鼠小紋東君新形/ねずみこもんはるのしんがた』と言う歌舞伎が上演されてからと言われている。
    しかしこの芝居の脚本の作者、二世河竹新七(古河黙阿弥)は、それ以前に講釈師の二代目伯月が講釈していたものを芝居仕立てに書き直した物とされているので、鼠小僧の大元はさらにさかのぼる事になる。

  • この歌舞伎では鼠小僧が格好良い義賊として描かれている。
    たとえば100両の金をだまし取られた刀屋の新助が主人に面目ないと覚悟を決めて、愛人の芸者?と共にに飛び込んで自殺?をしようとする。
    そこに、TVドラマのヒーローでお馴染みのパターンとして間一髪の所に鼠小僧が出現し「見ず知らずのお前達だが、金のために命をおとすなんてのを見逃すわけにはいかねぇ」と、稲毛屋敷に忍び込み100両を盗み出した後「金は天道(てんどう)さまからのたまわり物だ、ありがてぇと思ったら親孝行せい」とセリフを残し風の様に去っていくと言う、いかにもなヒーローとして描かれている。

鼠小僧のモデル

  • このヒーロー鼠小僧にはれっきとしたモデルがいる。
    その人物・次郎吉は江戸中村座の木戸番の子供として生まれ、町火消し?となった。
    しかし賭博で身を持ち崩し、父親にも勘当され借金に追われ、切羽詰まった末ついに27歳のときに武家屋敷に忍び込んだ。それを皮切りに、江戸中の武家屋敷を専門に荒らす大泥棒となった。
    多いときで420両、少ない時は3分のはした金までもとりあえず盗んだと言う。

  • この鼠小僧ののいいところは、確かに取れる物は盗んだのだが、それは現金に限っていたことだった。
    いわゆる金目の物、衣類や刀剣などの場合は換金をしなくてはならず、そこからがついてしまうケースも考えられたので、どんなに立派な物があったとしても手を付けなかった。
    同様に古銭なども実際には換金しなければ使えないと言うことから手を出さなかった。

  • 当時の流通銭でも十両判あたりになると、一般的には祝儀用ぐらいにしか使い道がなかったし、使ったとしても目立ってしまうと言うことから盗まなかった。つまり、現実的にそのまま使えるような金しか盗み出さなかったのだ。

  • 一度捕らえられて、入れ墨追放となったがその後も懲りずに盗みを続け、1832(天保3)年に捕まるまでの約9年間で江戸にある99カ所の武家屋敷を122回に渡り狙い、その総金額は3000両(現代になおすと1億円以上)にも登ったという。
    そして、ついに捕らえられて1832年の8月19日、鈴が森刑場(品川)で処刑され、36歳の生涯を閉じた。

  • 鼠小僧が大名屋敷ばかり狙って庶民の家を狙わなかったと言うことで、庶民の味方として後に芝居になったのだが、実は別に『反権力』と言うワケではなかった。
    庶民の家に入っても盗み出せる金額はたかが知れている、そして金を持っていそうな商売屋などの場合は警戒が厳重で入りにくいと言う理由があった。
    その点、大名屋敷というのは屋敷が広く警備が手薄で抜け道が必ずあった。その上、その時代大名などと言っても長い平安な時代を経てしまったため武士道は廃れつつあったので、イザと言うときにもそんなに脅威ではなかったのだ。

  • 鼠小僧は芝居の中では、盗んだ金を庶民に分け与えたとされているが、そんな記録はどこにもなく(逆に芝居のように長屋の住人に大判小判を振る舞ったとしたら、それを使おうとした住人が逮捕される危険性だってある)あくまでも、盗んだ金は自分のために使った。
    もともと博打好きと言うことで、その使い道はもっぱら博打と女遊びだった。
    しかし、その使い方も普通の庶民の使い方とたいして変わらず、ちびちびとした物だったと言う。それはあまりにも大金を使うと、周囲に怪しまれる恐れがあったからかもしれないが、基本的に貧乏性だったのかも知れない。

  • 自分が鼠小僧だとバレるのを警戒していたというのは、何度も住所を変えたり(結婚して女房を貰っても、ある日突然消えてしまい、別の場所で新居を構え別の女房を貰ったりしていた)、名前を変えたりを続けていた事からも解る。
    そんな泥棒で最期はつかまり処刑をされてしまったのだが、金持ちの家ばかり狙ったところから庶民に取ってはある種のヒーロー扱いになった鼠小僧は、その後講談や芝居、さらに映画テレビドラマなどに登場し時代を超えて愛され、義賊の代名詞ともなった。

  • 元々は囚人用の共同墓地に埋葬されたハズだったが、死後25年経ってから最初の歌舞伎が上演され人気を得たとたんに小塚原回向院(浄土宗:荒川区)に墓が出来、線香が絶えないほどの参拝客が訪れるようになったと言う。
    その事から、当時の庶民が権力や金を持っている人々にどの様な気持ちを抱いていたのかがうかがいしれる。
    小塚原回向院には吉田松陰や、桜田門外の変で大老井伊直弼を殺害した水戸浪士や、1876(明治9)年最後の斬殺刑になった高橋お伝の墓もある。

更新履歴

  • 2005.03.18.2001.03.20

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