浅間山荘事件 のバックアップ(No.1)


【あさまさんそうじけん:浅間山荘事件】

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10日間に渡る攻防戦

  • この事件が起こった1972年と言う時代背景は、60年代末に盛り上がった学生運動も、1968年.07月02日に始まった学園紛争・東大安田講堂バリケード封鎖が1969年01月19日に解除された時が頂点で、翌年1970年.3月31日に赤軍派・田村高麿をリーダーとするグループが日航機よど号をハイジャックし北朝鮮に渡り、学生の間でも政治の季節は終わりかけていた頃でした。
  • いわゆる「ノンポリ」や「モラトリアム」がメインになり「しらけ世代」などと言いわれ、「俺達の力では世の中はそんなに変えられない」と言う言葉が囁かれ始めていた頃だった。

  • そんな政治の季節の末期の大事件として記憶に残されているのが、連合赤軍がに覆われた山荘で人質を楯に籠城を続けた『浅間山荘事件』です。
    とにかく、メディアの時代の始まりを象徴するかのように、延々と現場から生中継の画像が送られ続け、多くの視聴者が釘付けとなりました。

  • 連合赤軍と言うのは、国内で過激的な活動を続けていた新左翼グループのひとつで、「銃による革命」を標榜し、猟銃店などからライフルなどを強奪し軍事訓練を続けていました。
    1972(昭和47)年.2月7日群馬県下で連合赤軍のアジトが発見されて19日までに永田洋子、森恒夫、植垣康博というリーダー格の8人が逮捕されました。
  • 2月19日、逃げ続けていた連合赤軍の残り5人の男性が、軽井沢?にあった河合楽器の会社保養施設『浅間山荘』に押し入り、ライフルを構え管理人の妻を人質に立て籠もってしまったのです。
    これに対し機動隊約750人が山荘を取り囲み、何度かの銃撃戦を繰り返し、膠着状態に入ったのです。

  • 2月21日、メンバーらの母親が現場にヘリコプターで駆けつけ、ながらに説得にあたったのですが、これに関しても反応はなし。
  • 2月23日、過去の人質事件「金嬉老事件」の87時間40分を超え、不名誉な記録をうち立ててしまった事に関し、放水と催涙弾で警察は強行作戦を始めました。(最終的に218時間にもなりました)

  • 2月28日、ついに籠城から10日目を迎えてしまい、人質の衰弱を考え、一気にここで片を付けなければと考えた警察は、午前10時、クレーンでつり上げた2トンの鉄球を山荘脇の玄関にぶつけ、山荘を破壊すると言うとんでもない作戦に出たのです。
    この大作戦はテレビで生中継され、多くの人が目撃者となりました。
    壁の一面が崩れたのをきっかけに特攻部隊が突入し、銃や手製爆弾で反撃する連合赤軍のメンバーを3階の屋根裏部屋へと追いつめ、午後6時頃、ついに逮捕となった。

  • この銃撃戦で、警官2名が死亡し、現場中継を行っていたマスコミ関係者など13人が流れ弾などで重軽傷を負った。
    この10日間で警察側が使用した催涙弾は1000発以上、放水は100トンでしたが、実弾はわずか15発だったと言いますから、いかに人権の方を重視していたのかが判ります。
    この時、警察側の総指揮をしたのは、東大安田講堂事件やよど号ハイジャック事件などでも総指揮をしていた佐々木淳行氏(現在評論家-水戸黄門?の助さんの姉の末裔)です。
    ちなみにこの時の視聴率は89.7%と言う脅威的なものでした。

連合赤軍内部のリンチ事件[連合赤軍事件]

  • 事件は犯人逮捕だけでは終わりませんでした。
    逮捕されたメンバーの事情聴取が進むにつれ、その怖ろしい事件の全貌が見えてきたのです。

  • 追いつめられつつあった連合赤軍内部で「闘争に対する意識に欠ける」と言う理由や「規律違反」あるいは「スパイ行為」をしたとして『総括』と言う名目で14名(男9・女5)のメンバーがリンチに掛けられ殺されていた事が判明したのです。
    その遺体は、群馬県の山中に12遺体、千葉県の山中も2遺体埋めれており、その殺されたメンバーの中には妊娠中の女性もいて、革命の名の下に人命を軽く見ている事に世間は驚愕させられたのです。
    そのリンチを指揮したのは連合赤軍の最高幹部・森恒夫、永田洋子が中心で、その後二人を含めた17人が逮捕され森恒夫は獄中で自殺?を図り、永田と中央委員の坂口弘が死刑判決を受けた。

  • 浅間山荘事件でリーダー格だった板東国男は、1975(昭和50)年8月クアラルンプールで起こった日本赤軍によるアメリカ大使館占拠事件で釈放、超法規的措置によって国外逃亡し、パレスチナへ渡った。

日本赤軍と重信房子

  • 日本赤軍と連合赤軍は元々「赤軍派」と呼ばれる組織から派生したものだが、連合赤軍が国内、日本赤軍が海外を活動拠点とする違いがあった。
    日本赤軍は1971(昭和46)年にレバノンで重信房子によって結成された組織で、世界各地でテロ活動を続け国際指名手配をされていました。

  • 日本赤軍は、中東を拠点としてパレスチナゲリラとの連携を深めながら活動を続け、1988年.04月14日にナポリの米軍クラブで車爆弾が爆発し22人死亡する事件などを起こしさらに逮捕状が出たりしていましたが、90年代中期に入ってから活発な活動がなくなり、重信房子の行方も判らなくなっていた。

  • しかし、2000(平成12)年.11月18日に突然、重信房子が大阪に潜伏している処を逮捕され、表面的な活動は終わったとされています。

更新履歴

  • 1999.00.00.知泉

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