新渡戸稲造 のバックアップの現在との差分(No.1)


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 -誕生:1862(文久2)年08月03日・盛岡で生まれる~
 物故:1933(昭和8)年10月15日・カナダ・ビクトリアで客死~
 メモ:1984(昭和59)年11月01日・新しい紙幣の肖像として5000円札に新渡戸稲造が登場~
 
 *新渡戸稲造 [#v0e14f81]
 1862(文久2)年08月03日○新渡戸稲造生まれる。~
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 旧暦文久2年9月1日・陸奥国岩手郡(現在の[[岩手県]]盛岡市)南部藩勘定奉行・新渡戸常訓 の3男として誕生~
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 1877年○明治10年・東京英語学校を経て札幌農学校に入学する。~
 そこで[[クラーク博士]]の教えに感化されキリスト教の信仰に入る。~
 札幌農学校の同級生には、後に無教会主義キリスト教の創始者になる内村鑑三がいた。 ~
 二人は共にクラークの「イエスを信ずる物の誓い」に署名していて、キリスト教の中でもクェーカー教徒となり、クラークの提唱していた「[[太平洋]]の架け橋になる」事を信条とし続けた。 ~
 後に東京大学選科生として、美学・統計学などを学ぶ。~
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 1883年○明治16年、教育に失望して退学。~
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 1884年○明治17年・[[アメリカ]]のジョンホプキンス大学に留学。~
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 1887年○札幌農学校助教授の事例を受け[[ドイツ]]に留学。~
 ドイツのボン・ベルリン・ハレの諸大学で農政学や農業経済学を学ぶ。~
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 1891年○帰国し札幌農学校教授となる。~
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 1897年○神経症を患い、静養生活に入る。~
 この療養中に書いた学術書『農楽本道(1898)』を発刊。~
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 1898年○療養を兼ねて欧米漫遊に出かける。~
 この漫遊中に武士道を日本のすぐれた精神的伝統としてとらえ直し、伝統を生かす上で求められるキリスト教の役割を説いた『武士道(1899)』を刊行した。~
 アメリカでは新渡戸稲造と言うとこの『武士道』の作者として知られている。~
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 1903年○札幌農学校教授・台湾総督府技師~
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 1903年○京都帝国大学法科大学教授。 ~
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 1906年○法学博士・第一高等学校校長(〜1913)となる。~
 国家主義的だった校風を人格的主体としての人間を呼び覚ます教育へと移行させ、学生達にも多大な影響を与えた、~
 同時期に東京帝国大学教授を兼任、1913年同大教授専任となり、植民地政策を講義する。~
 この間、1911年最初の日米交換教授としてアメリカの6大学で講義を行なった。 ~
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 1918年○東京女子大学初代学長となる。~
 女子教育にも力を注ぎ、津田梅子が中心となった津田塾大学の創立に尽力したり、後に東京女子経済専門学校 (現、東京文化短期大学) の学校長をもつとめた。 ~
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 1920年○国際連盟事務局次長としてジュネーブに駐在。〜26年。~
 国際舞台で活躍、帰国後帝国学士院会員、貴族院議員に選任。~
 悪化しつつある日米関係に対して、改善しようと尽力するが、その反戦的・反軍的な発言は官憲の圧迫を受けつつあった。~
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 1933年○[[カナダ]]のバンフで開催された太平洋会議に日本代表の委員長として出席。~
 その会議終了後病で倒れ、ビクトリアで客死した。~
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 1933年○昭和8年10月15日・カナダ・ビクトリアで客死~
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