笑っていいとも のバックアップ(No.10)
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- 1 (2006-02-28 (火) 00:27:47)
- 2 (2006-03-08 (水) 06:56:36)
- 3 (2006-07-01 (土) 02:11:32)
- 4 (2006-08-04 (金) 06:55:00)
- 5 (2006-08-23 (水) 01:44:58)
- 6 (2006-12-09 (土) 10:00:44)
- 7 (2007-03-13 (火) 07:45:52)
- 8 (2007-03-13 (火) 16:19:41)
- 9 (2007-03-13 (火) 17:44:01)
- 10 (2007-04-29 (日) 12:40:37)
- 11 (2007-10-08 (月) 10:20:25)
- 12 (2010-08-28 (土) 11:38:01)
- 13 (2010-10-21 (木) 07:22:16)
わ?【わらっていいとも:笑っていいとも】
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笑っていいともの豆知泉 †
- 笑っていとも「テレフォンショッキング」は、事前に電話する事を伝えてあるのは当然の事だが、細野晴臣は友達として大瀧詠一に電話したが「出たくないって、さんざん断っただろう」と出演拒否をされた。
慌ててタモリが「明日来てくれるかな?」と呼びかけると「嫌です」と。
1983年3月24日放送分で、結局翌日は糸井重里が呼ばれた。
- テレフォンショッキングの初期は、事前予告もなく電話する事もあった。
和田アキ子がガッツ石松に電話した時、事情が飲み込めないガッツは「この間の裏ビデオが…」と話し始めて、まさにショッキングな事になった。
これは番組第1週目早々の第5回、1982年10月8日放送分。
- ちなみにその1982年10月8日(金曜日)テレビ朝日で「タモリ倶楽部」が始まった。
つまり「笑っていいとも」「タモリ倶楽部」というタモリの長寿代表番組は、1982年10月の同じ週にスタートしている。
- 笑っていいとも第1回目の一番最初のコーナーは「タモリの世界の料理」。当時は主婦層に人気が無かったタモリが昼時という事を考慮して作ったコーナー。ちなみに第1回目のテレフォンショッキングは番組の一番最後のコーナー(時間がどうなるか不明なので後に一番最初のコーナーにもっていくことになる)
- テレフォンショッキングのゲストはのべ4500人、最多出演は和田アキ子の11回。(1999.12現在)
- テレフォンショッキングのコーナー。出演料はタレントランクには関係なく、一律20万円と言われている。
- 間寛平が出演した際は恒例で猿の喧嘩をする事になっている。2004年8月12日は最初からウキーッウキキーッと始まり、延々とふざけ続け、結局トークが一切無かった。
- 黒柳徹子が「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに出演した時、わがままを言って1時間、他のコーナーを一切やらせないで喋り続けた。
- 作家・有吉佐和子はテレホンショッキングに出演、ADやタモリの制止も聞かず42分間も話し続けた。因みに最長記録は黒柳徹子の43分。
- 「笑っていいとも」はお昼の番組で有名ですが、青森県や山口県ではフジ系列局がない為、ATV青森テレビやTYSテレビ山口(いずれもTBS系)で夕方の5時にやっている。そして青森の北のほうでは1日に2回やっているらしい。「お昼休みは…」ではない。
- 爆笑問題は「笑っていいとも」のレギュラー起用→降板の最短記録4回を持っている。(その後、別のシーズンでレギュラー復活)
- 森末慎二は「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに呼ばれた時はまだアマチュア選手だったので、アマチュア規定に引っかかってしまうと言うことで、その日に引退表明をしてタレント活動を開始した。1986年2月25日、岸田智史からの紹介で出演。翌日は佐野稔
- 笑っていいともが前もって予定され放送されなかったのは
1984年8月13日(月)ロサンゼルス五輪の開会式の為
1989年7月24日(月)前日に参院選が行われた為の特別番組
1993年6月9日(水)皇太子殿下と小和田雅子さん結婚の儀の為
1996年7月22日(月)〜26日(金)オリンピック特番の為
2000年9月26日(火)シドニーオリンピック中継の為
- 笑っていいともが予定外で放送されなかったのは
1989年1月9日(月)〜13(金)昭和天皇の崩御の為
1989年2月24日(金)昭和天皇の大喪の礼が行われた為
1991年1月17日(木)湾岸戦争開始の為
1993年1月19日(火)皇太子殿下、小和田雅子さんの結婚に関する皇室会議の為
1995年1月17日(火)〜20日(金)阪神淡路大震災の為
1995年3月20日(月)地下鉄サリン事件発生の為
1995年5月16日(火)オウム真理教への強制捜査が行われた為
2001年9月12日(水)米国テロ事件に関する報道特別番組の為
- 90年代に入ってタモリが欠席したのは(80年代は夏に休む事もあった)
1994年12月6日(火)小型船舶一級の試験のため休み
1995年1月26日(木)小型船舶一級の実技試験のため休み
2001年11月5日(日)〜14日(水)ゴルフでの怪我のため休み
- 笑っていいとも「テレフォンショッキング」は初回の桜田淳子から延々と続いているように思われがちだが、途中数回途切れている。(代理出演の人も友達なので続いていると言えば続いているんですが)
- あと、急遽入院になった宇多田ヒカルなども。
- 単独司会者による生放送の長寿記録としてギネスブック?に2002年4月5日認定され、掲載されている。
- 2003年1月15日放送で『ギネスブックに載った喜びを小泉純一郎首相に伝えたい』と言っていたために、総理側近の飯島勲秘書官に電話したところ、ちょうど隣に小泉首相がいて電話で生出演。
小泉首相は「笑っていいとも!」が生放送だと知らなかったことを明かした。
- 「笑っていいとも」初期にはロケで撮影してきた物を流すようなコーナーも存在していたが、生放送の意味がないので数回で中止になった。そのロケをやっていたのは斉藤清六。
- トリビアの泉にタモリが出ている1つの理由に、チーフプロデューサーの吉田正樹がフジテレビに入社当時に「笑っていいとも」の二代目青年隊をやっていたというつながりがある。
※いいともを20年以上続けていれば番組初期の新人スタッフも大御所になっているって事なのだ。
- ちなみに吉田正樹の奥さんはナベプロの社長の娘で現在副社長を務めている。
- タモリは「笑っていいとも」の『テレフォンショッキング』で、どんなゲストでもそつなくこなしているが、もっとも苦戦したのは、普段から嫌いだと公言していた小田和正。実は小田和正を紹介したのは明石家さんま。
※出演は1984年2月14日。ちなみに小田和正は星野仙一を紹介している。