松尾芭蕉 のバックアップ(No.2)


:松尾芭蕉(まつお ばしょう)

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松尾芭蕉の略歴

  • 1644年、伊賀国上野(現.三重県上野市)の地侍クラスの農民の子供として誕生したと言われている。(仮説の中では伊賀忍者だったのでは無いか?ともうわさされている)

  • 本名は、松尾忠右衛門宗房。
    津藩の侍大将《藤堂良精:とうどうよしきよ》に仕えました。
    俳諧は10代後半より北村季吟の元で勉強を始めたが、23歳の時に季吟の急死を機会に、独立をし、1672(寛文12)年に始めての俳集『貝おほひ』を編んだ。

  • 31歳の頃、俳諧師として名前を起こすために江戸に下り、翌年、1676年、談林派の総師宗因に才能を認められ、同派の江戸宗匠になり名前が知られることになる。
    しかし、1684(貞享元)年頃、それまでの俳句をうち破るために、新たに蕉風俳諧をうち立て、俳諧を和歌と対等な地位にまで引き上げることに成功した。
    場所は旅を好み「野ざらし紀行」「奥の細道」などの紀行文を残した。

  • その後、九州へ向かう途中、1694年10月12日、大阪で客死。

古池や蛙飛び込む水の音

  • 芭蕉の句でもっとも有名だと思われるのは『古池や蛙飛び込む水の音』です。
    この句は芭蕉が43歳の時に作った物ですが、まず『蛙飛び込む水の音』の部分だけが出来て、上の句は長らく出来ずに保留してあった物だと言われています。

  • その当時、松尾芭蕉は江戸の深川にあった俳人仲間・杉山杉風の別荘に住んでおり、そこを『芭蕉庵:ばしょうあん』と名付けていた。
    その芭蕉庵の脇には池があったのだが、本当は池と言う風流な物ではなく日本橋に住んでいた杉山杉風が川魚を捕まえて養殖する為の《生簀:いけす》として使っていた物でした。
    その生簀の脇に座っていた芭蕉のカエルが飛び込む音が聞こえ・・・と言われていますが、当然それは《古池》なんて物ではなかったのです。

  • この句に関しては別の解釈をする人も存在して、実はこの句は芭蕉がその池に飛び込んだ時の事を書いているのはないか?と言う説があるのです。
    この句より遡ること4年、駒込のお寺が火もとになった大火事が発生したのですが、その際、芭蕉庵も類焼してしまったのです。
    その時、慌てた芭蕉はこの池に飛び込んで難を逃れたとも言われています。
    その時の事を句にしたという説があるのですが、そうだとしたらまるっきりこの句の趣が変わってしまいます。

松尾芭蕉のスポンサー

  • 1689(元禄2)年3月27日、松尾芭蕉は江戸・深川を出発し《奥の細道》を書き上げるための旅に出ました。
    出発点の深川からゴール地点の大垣まで約5ヶ月掛かってをしたわけですが、その距離は約2500キロにもなります。
    この旅を現在行ったとすると、歩いたぶんの交通費は掛からないとしても宿泊費用と食事代などを計算すると最低でも100万円はかかる事になります。
    この旅費を芭蕉はどのように捻出したのでしょうか?

  • 実は旅に出るに当たって芭蕉は江戸の拠点としていた芭蕉庵を売り払っている。とりあえず築6年(前述の火事の後で再建した)という比較的新しい草庵だったので、それなりの金額になったと思われる。
    さらに芭蕉はすでに名声を得ていたので、その俳句を書き上げるための旅だと言うことで、支援者の多くから餞別を貰ったと記録されている。
    さらに場所は行く先々で何度も《芭蕉主催俳句大会》を開催している。つまり、この会を開くたびに収益金を上げていたと考えられ、俳句の旅と同時に地方巡業的な意味合いも兼ね備えていたのだ。

  • さらに旅の先々で、芭蕉門下の俳人などに逢っていることから、そこでも奢って貰ったり、留めて貰ったり、さらに餞別などを貰っていたと思われている。
    つまり芭蕉の旅はかなり裕福で安心できる物だったと考えられているのだ。

1694年10月12日 松尾芭蕉死去・芭蕉忌

  • 松尾芭蕉は、1694年、大阪に旅した時に突然発病して、10月12日に亡くなっています。
    その最期には大阪の弟子たちが多数立ち会っていた為に、事細かな様子が記録として残されています。
    その文献を後世の研究家が調べたところアルカロイド系のを持った、紅天狗茸を食べての中毒死なのではないか?と言う説が出ました。

  • しかし紅天狗茸と言うのは、毒々しいをしているので、旅慣れた芭蕉が間違って食べるような物では無い物なので、この説は立ち消えになってしまいました。
    そこに登場してきたのが芭蕉トリカブト殺人事件説です。トリカブトを摂取すると、記録に残されているようなアルカロイド系の毒を摂取したのと同様な最期になると言うのです。

  • しかし、芭蕉がなぜ殺されなければいけなかったのか?という疑問なのですが、これも昔から言われ続けている「芭蕉忍者説」が絡んでいます。
    芭蕉は忍者の里として知られる伊賀上野(現:三重県上野市)の出身で、奥の細道を始めとして全国を行脚し続けたのは俳人という立場を利用して各藩の様子を調べていたと言う説を支持する人もいるのです。
    その為に、そんな芭蕉を付けねらう刺客の手によってトリカブトを盛られたと言う、説が出てきたというのです。実際の所はまったく不明となって、一般的な本には「大阪で開催された句会の際食中毒になった」とも記載されている。

  • 辞世の句は『旅に病んで 夢は枯野を 駆けめぐる』
    出身地の三重県上野市では芭蕉祭が行われます。

記載記録

  • 2001.03.16「松尾芭蕉のスポンサー」知泉
  • 2001.00.00「松尾芭蕉死去・芭蕉忌」知泉

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