佐々木小次郎 のバックアップ(No.2)


【ささきこじろう:佐々木小次郎】人名さ

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4月13日 決闘の日

  • 1612(慶長17)年.4月13日、美作の浪人・宮本武蔵?と細川家指南役・佐々木小次郎の決闘が、豊前小倉沖の無人島・巌流島(舟島)で行なわれた事から、作られた記念日ですが、何をする日なのかは不明。

巌流島

  • 1612(慶長17)年4月13日、戦乱の世が終わり(関ヶ原の合戦は1600年)徳川が全国を掌握したこの時期、関門海峡に浮かぶ小さな島・巌流島(山口県)であの有名な決闘が行われた。
    宮本武蔵と佐々木小次郎と言う武術の達人同士の歴史に残る決闘である。

  • 吉川英治を初めとして多くの小説などに描かれる、待ちぼうけを喰わされた小次郎の「遅れたり武蔵」と、ワザと遅れた武蔵の「小次郎破れたり」のセリフは有名です。
    しかし、この決闘には不可思議な事がある。

  • 多くの物語に描かれている二人の姿は、宮本武蔵が無骨な荒武者なのに対し、佐々木小次郎は美少年の剣士となっている。が、実際はかなり二人の間に年齢差があり、ほとんど親子の決闘だったと言う。
    佐々木小次郎の生まれ年などは詳しく判っていないのだが、残されたいくつかの文献を並べると不思議なことになってしまうのです。

  • まず佐々木小次郎は、若い時に富田勢源の門下に入ったとされているが、この富田勢源の弟である治郎左衛門と試合をして勝っていると言う記録が残されている。
    しかし、その富田治郎左衛門の息子が、巌流島の決闘より29年も前の1583(天正元)年に25歳で死去したと言う記録も残されているのです。

  • もし、小次郎が富田治郎左衛門の息子と同年輩だったとしても、巌流島の戦いの時にはすでに54歳、ましてや富田治郎左衛門と同じ年齢だったら70歳前後と言うことになってしまう。当時の感覚で言えば、54歳とはもう隠居の年齢なのです。
    血気盛んな若い荒武者・宮本武蔵はずいぶんと年寄りと闘ったと言うことになってしまうのです。

更新履歴

  • 2000.00.00
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