古川緑波 のバックアップソース(No.1)

[[ふ]]:古川緑波:ふるかわ ろっぱ
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*古川緑波 [#v172017a]
-1903年08月13日 医学博士で宮内庁侍医として[[大正天皇]]に仕えて、貴族院議員も務めた男爵・加藤照麿の6男として東京市麹町区五番町に誕生した(兄弟は7男1女で第7子)本名・郁郎~
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-※祖父:加藤弘之[1836(天保7)年6月23日-1916(大正5)年2月9日]
政治学者で明治新政府の宮内省4等出仕から東京開成学校綜理、東京大学法理文三学部の綜理を経て枢密顧問官、初代東京大学総長、学士院会長などの要職を歴任した人物。
但馬国出石藩(現・兵庫県出石郡)出身。藩校弘道館に学び、その後江戸に出て佐久間象山・大木仲益らに入門をし蘭学を学ぶ。
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-1864(元治1)年に幕臣となり開成所教授職並に任ぜられる。維新後は新政府に出仕し、東大綜理などを歴任するようになる。
男爵として『国体新論』『人権新説』などの著作があるが、特に1870年に著した『吾国体と基督教』と言う著作ではキリスト教を攻撃し論争を巻き起こした。
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-この祖父は孫たちにも徹底したスパルタ教育を施し、長男以外は他家へ養子に出すと言う方針で、郁郎も満鉄役員だった古川家に養子に出された。~
兄弟の内、長男・成之は加藤家を継いで後に東京芸術大学音楽部長となる。~
4兄の実は浜尾子爵家に養子になり、その後東宮侍従をするかたわら浜尾四郎の筆名で探偵小説作家となる。(1896(明治29)年4月24日〜1935(昭和10)年10月29日)~
5兄の高鋭(たかひで)は京極子爵家に養子となり貴族院議員、末弟・義彦は増田家に入り実業之日本社社長となった。~
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-古川緑波と言う名前ですが、これは彼が小学校3年生の時に童話作家・巌谷小波を崇拝していてそこから自ら号を考え出したもので、小学校の宿題などにこの名前を書いて出し怒られた事もあったという。~
この頃から尾上松之助(目玉の松っちゃん)や沢村四郎五郎などの活動写真に親しむが、早稲田中学を経て早稲田第一高等学校に入った頃には、映画雑誌へ『古川緑波』と言う筆名で盛んに投稿をし、卒業後は『キネマ旬報』の編集人となる。~
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-1923年、友人である海軍中将の小笠原長生子爵の長男・小笠原長隆がボーイスカウトのPR映画を制作することになり、その主演を依頼される。~
この作品では平戸延介(後に山本嘉次郎の名で監督になる)にそそのかされ令嬢・原光代を誘拐する役を演じ、最後はボーイスカウトに追いかけられ改心すると言う物だった。この作品は帝劇で公開され、俳優古川緑波のデビュー作となった。~
同年、小笠原映画研究所第1回作品に出演する。この映画の主演・植木進は後の片岡千恵蔵。~
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*更新履歴 [#n99c8363]
-2000.00.00.知泉
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