芥川龍之介 のバックアップ差分(No.3)


  • 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
 【芥川龍之介】あくたがわ・りゅうのすけ(作家)~
 [[人名あ]]【芥川龍之介】あくたがわ・りゅうのすけ(作家)~
 #ref(http://tisen.jp/tisen/a002/a159.jpg,around,nolink)~
 誕生日:[../hbd/query.php?KeyDate=1892%2F03%2F01/ 1892(明治25)年03月01日]~
 出身地:東京京橋区入船町  ~
 血液型: 型  ~
 本 名:    ~
 学 歴:    ~
 所 属:    ~
 備 考:    ~
 死 去:[[1927(昭和2)年>1927年]].[[7月24日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=07/24]]:睡眠薬自殺 ~
 #clear
 
 #counter(today)
 | この項目は未完成です。加筆・訂正を各人の責任の元に行って下さいませ。 |
 **7月24日 河童忌 [#v8fff219]
 -[[1927(昭和2)年>1927年]].[[7月24日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=07/24]]、作家の芥川龍之介が多量の[[睡眠薬]]を飲んで[[自殺]]しました。数えで36歳でした(現在の満年齢なら35歳)。~
 その死後、この命日は代表作の『河童』から、「河童忌」と名付けられました。~
 ----
 -芥川龍之介は東京生まれ、夏目漱石の門下で、『鼻』『芋粥』で注目され、『羅生門』『地獄変』『歯車』『或阿呆の一生』などの作品を残しました。~
 ----
 -7月24日は芥川龍之介の亡くなった日で、その作品から『河童忌』と呼ばれるが、
 偶然だが、現役プロボクサー時代に《河童の清六》と呼ばれていたタレント・たこ八郎が亡くなった日も、[[1985(昭和60)年>1985年]]の7月24日。~
 
 ** ───1892(明治25)年(数え01歳/満00歳)──────── [#nd0baa09]
 -[[1892(明治25)年>1892年]]:[[3月1日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=03/01]]:東京京橋区入船町に生まれる~
 生後9ヶ月の頃、母親が精神病を発病したため、本所小泉町の母の実家・芥川家の養子となる。~
 芥川家は[[江戸城]]の御数寄屋坊主を勤めた家柄で、趣味性豊かな家柄だった。~
 -芥川龍之介は辰年、辰の月、辰の日、辰の刻に生まれたので「龍之介」と名付けられた。~
 ----
 -府立3中から一高・東大英文科へと進み、ボードレール・ストリンドベリなど世紀末の文学と親しんだ。
 
 ** ───1908(明治41)年(数え17歳/満15〜16歳)──────── [#aa03c130]
 
 ** ───1909(明治42)年(数え18歳/満16〜17歳)──────── [#q759149a]
 
 ** ───1910(明治43)年(数え19歳/満17〜18歳)──────── [#k5c08926]
 
 ** ───1911(明治44)年(数え20歳/満18〜19歳)──────── [#zebaab08]
 
 ** ───1912(明治45〜大正元)年(数え21歳/満19〜20歳)──────── [#zdb55c91]
 
 ** ───1913(大正02)年(数え22歳/満20〜21歳)──────── [#l8fecfb2]
 
 ** ───1914(大正03)年(数え23歳/満21〜22歳)──────── [#sd6a44fe]
 -豊島与志雄・久米正雄・[[菊池寛]]・松岡譲などと第3次「新思潮」を発刊~
 ここで芥川はイェイツなどの翻訳を発表すると同時に、処女作「老年」を書いた。
 
 ** ───1915(大正04)年(数え24歳/満22〜23歳)──────── [#j62b2118]
 -『羅生門』~
 秋の夕暮れ、[[平安時代]]末期の荒れた羅生門の下で[[雨]]がやむのを待っていた下人は、生きるために女の死体から髪を抜く老婆から、自分も生きるためにと言って衣服をはぎ取って去ってゆく。~
 「今昔物語集」を素材に、正義感とエゴイズムの間を不安定に揺れる人間の心理を鋭く描写した作品。~
 「帝国文学」に『羅生門』を発表したが注目されず、友人の紹介で[[夏目漱石]]の「木曜会」に出席し、門下に入る。
 -----
 -[[夏目漱石]]と芥川龍之介が初めて[[顔]]を合わせたとき、二人の間で出た話題は「『[[万歳]]』と人前で唱えたことがあるか?」だった。
 
 ** ───1916(大正05)年(数え25歳/満23〜24歳)──────── [#p85b6e69]
 -『鼻』~
 「新思潮」に発表された短編。~
 京都池の尾の高僧禅智内供は極端に長い[[鼻]]を短くすることを願い、秘法を聞いて成功するがかえって嘲笑されてしまう。そして元の鼻に戻してほっとするという、人間の心理の変化を描いた近代的解釈による作品。~
 「鼻」を[[夏目漱石]]に激賞されたが、漱石の人格的な魅力に呪縛され「このままでは本来の自分を見失う」と考えた芥川は漱石からワザと遠ざかろうと意識した。~
 その後「芋粥」「或日の大内蔵助」など1作ごとに語り口を変える文体の功緻さは群を抜き、たちまち一流作家となる
 
 ** ───1917(大正06)年(数え26歳/満24〜25歳)──────── [#xdea6cc6]
 
 ** ───1918(大正07)年(数え27歳/満25〜26歳)──────── [#lfd8dd15]
 -この時期に発表された[[島崎藤村]]の「新生」を読み「この主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことがない」と憤慨した、と芥川の自殺後に発見された遺稿『或阿呆の一生』に記している。~
 ちなみにこの「新生」は島崎藤村が自分をモデルにして書いた私小説。~
 (*老獪とは経験を積んでいて悪質な事を云う)
 
 ** ───1919(大正08)年(数え28歳/満26〜27歳)──────── [#b9a29c53]
 -海軍学校教師を辞め、[[大阪朝日新聞社>朝日新聞]]の社員となって、完全な文筆活動に入る。(当時は新聞社専属作家があった)~
 自ら「我鬼窟」と称した書斎に閉じこもった。~
 -母親の発狂という出自に苦しむ芥川龍之介は、告白を良しとする私小説の道へ行く自然主義と対峙する立場で「人生は一行のボードレールにしかない」と言うことばの美的洗練へ向かう道があった。~
 作品の細部まで、自分の意識の統制下において高い完成度を目指すことは、無意識を徹底して排除する方法であった。
 
 ** ───1920(大正09)年(数え29歳/満27〜28歳)──────── [#fdb1b723]
 
 ** ───1921(大正10)年(数え30歳/満28〜29歳)──────── [#n85ede63]
 
 ** ───1922(大正11)年(数え31歳/満29〜30歳)──────── [#t86ed00a]
 
 ** ───1923(大正12)年(数え32歳/満30〜31歳)──────── [#se4a51e1]
 
 ** ───1924(大正13)年(数え33歳/満31〜32歳)──────── [#r756dfe5]
 
 ** ───1925(大正14)年(数え34歳/満32〜33歳)──────── [#sc8a6fc8]
 -[[萩原朔太郎]]が上京して田端に住む、この頃、[[谷崎潤一郎]]などと遊びに出かけている。
 
 ** ───1926(大正15/昭和元)年(数え35歳/満33〜34歳)──────── [#vb999613]
 
 ** ───1927(昭和02)年(数え36歳/満34〜35歳)──────── [#j29d5713]
 -[[1927(昭和2)年>1927年]].[[7月24日>http://tisen.jp/dkg/query.php?KeyDate=07/24]]:致死量の睡眠薬を呑んで田端の自宅で自殺:享年36~
 「何か僕の将来に対する唯(ただ)ぼんやりとした不安である」~
 服毒自殺を遂げた芥川龍之介は遺稿「或旧友へ送る手紙」の中で自殺の動機をこの様に語っている。~
 -----
 -その日、彼は書斎にこもり「続西方の人」「文芸的なあまりに文芸的な」を書いた。夕食時には、ふみ子夫人や3人の子供達と談笑していたと言う。~
 夕食後、彼は再び書斎に戻り、[[聖書]]を読みふける。そして午前1時頃、睡眠薬を多量に服用した。それから寝間着に着替えて寝室へ向かった。~
 翌日の早朝、夫人が芥川の異変に気づき医師を呼んだが、時既に遅く、その朝に息をひきとった。~
 -----
 -実はこの年の4月にも、芥川は[[帝国ホテル]]で自殺を図っている。ふみ子夫人の幼なじみで芥川とも親交のあった女性との心中だった。~
 しかし、その時は、その女性がふみ子夫人に連絡をし未遂に終わっている。~
 芥川龍之介は極度の神経衰弱に悩まされていた。彼の晩年の作品には、発狂への恐怖が憂鬱な蔭を落としているとも言われる。~
 ----
 -自殺の前年、[[大正天皇]]が崩御している。~
 時代は昭和に入り、大きな転換期を迎えていた。そんな時代の中、芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」を感じ精神を徐々に病んでいった。
 
 
サーチ:
キーワード:
Amazon.co.jp のロゴ