雲仙普賢岳 のバックアップ(No.1)


?:雲仙普賢岳(うんぜんふげんだけ)

Counter: 4467, today: 1, yesterday: 0

大規模な火砕流で43人死亡

  • 1990(平成2)年11月17日、長崎県にある雲仙普賢岳の地獄跡火口と九十九島火口から噴煙が立ち上ったのがすべての始まりでした。
    九州は火山が多い地域として、その火口も観光名所となっていたのですが、この雲仙普賢岳は最後の噴火よりすでに200年も経っていたために、島原付近で群発地震もあったのですが、多くの人(研究者までも)が「すぐに終わる」と考えていました。

  • しかし、その噴煙と群発地震は収まることがなく、翌年の2月には新たなる火口の出現と共に活動が活発になってきたのです。
    5月になる頃には普賢岳山頂付近に溶岩がせり上がって固まる溶岩ドームが出来たり、小規模な火砕流などが起こるようになって、付近住民は避難をするようになっていました。
    警戒をしつつも、避難地域では消防団がパトロールを続け、マスコミ関係者が大挙して連日の騒ぎになっていたのですが、ついに1991年6月3日の午後4時過ぎに、大規模な火砕流が発生して、普賢岳から水無川に渡る周辺に噴煙と溶岩が土石流となって流れこんだたのです。

  • これに巻き込まれた地元消防団員12人・警察官2人・マスコミ関係者16人・地元住民6人・タクシー運転手4人・外国人火山学者3人の合計43人(うち3人が行方不明扱い)が亡くなりました。
    水無川に沿って流れ落ちてきた火砕流のスピードは、新幹線なみの時速200キロだったので、火砕流が迫ってきたと思った瞬間にもうどうしようもなかったのです。
    事件後、死体を捜索に出かけた消防団員の話によると、一人の遺体だと思ってタンカに乗せた遺体が後に二人が抱き合った状態だったと判明したなど、とてもまともな状態ではなかったと言います。

  • この悲劇に関しては、5月に小規模な火砕流が発生した段階で気象庁管轄の火山予知連絡会がパニックになってはいけないと言う配慮から、あくまでも今回の噴火は「小規模火砕流」だと強調していたために、多くの人が必要以上の警戒をしていなかったからだとも言われています。
    警戒避難地区の設定に関しても火山予知連絡会は「市側の自主的な判断で避難せよ」と発言していたとも言われている。

  • それから5日後の6月8日も再び大規模な火砕流が発生し、さらに普賢岳山頂や中腹には新たな溶岩ドームが発生するなど、一向に終息に向かう様子がなく、3カ月も経った9月にそれまでで最大級の火砕流が流れ落ちてきました。
    そのために、島原市と深江町の住民合わせて1万1012人が避難生活を余儀なくされました。

更新履歴

  • 1999.00.00:知泉

サーチ:
キーワード:
Amazon.co.jp のロゴ