タイタニック のバックアップ(No.1)


【タイタニック号】

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タイタニック号沈没

  • 日本では明治時代最後の年、1912(明治45)年.4月10日イギリスのホワイトスターライン社の超豪華客船タイタニック号はイギリス・サザンプトンを出港して、フランスのシェルブール、アイルランドのクインズタウンに寄港、そして一路アメリカのニューヨークに向かって処女航海の旅を続けていた。
    船体は4万6328トン。乗員乗客2224名。

  • そしてイギリスを出港してから4日後、カナダ沖の運命のニューファンランド沖地点に到達した4月14日午後11時40分、北大西洋を漂っていた巨大氷山と衝突した。
    この衝撃で4万6326トンの二重底に亀裂が入り、3時間35分後の15日午前2時20分に沈没した。
    厳寒の海で漂う生存者は乗客2224人の、約3分の1ほどの711人だけだった。
    生存者はSOSで駆けつけたカルパチア号に救助されたが、残りの1513人が犠牲となった。
    世紀の海難事故だった。

  • タイタニック号から発信された遭難信号を最初に受信したのはアメリカン・マルコーニ社の技師D.サーノフ。
    実はここで使われたモールス信号SOS」は救難信号として採用されたばかりで、タイタニック号が信号発信第一号となりました。

予言されていた?

  • この豪華客船タイタニック号が沈んでしまった1912年より14年も前に不思議な小説が発表されています。
    モーガン・ロバートソンという人物の「無益」という小説で、その中には豪華客船の「タイタン号」が氷山にぶつかって沈むという物でした。
    タイタニックと言う名前がギリシャ神話に出てくる「タイタン」のような、と言う意味なのでまったく同じ名前の船と考える事もできます。

生存者の日本人のえん罪

  • 実は生存者711名の中に、たった一人だけ日本人がいた。
    鉄道院副参事で、鉄道院の第1回在外研究員として、ロシア・イギリス視察に派遣されていた細野正文氏。(当時41歳)
    細野氏はアメリカ経由で日本への帰国の途中で、この事故に巻き込まれてしまったのです。

  • 氏は、この世紀の大惨事から奇跡的に生き残ったのだが、世界的な大惨事として日本でも有名になっていた事件から無事に生還した細野氏を迎えたのは、感激ムードではなく「 おめおめ生きて帰るとは日本男児の恥」と非難する声ばかりだったと言う。

  • さらに、救出されたイギリス人乗客のローレンス・ビーズリー氏が生還後に発表した手記が大問題になった。
    ビーズリー氏はこの事故のことを克明に細かく記載している手記を発表したために、事故調査の第一級資料としてイギリス政府も信用していた。
    その中に次のような一文があったのです。

  • 「強引なかたちで救命ボートに乗り込んできたイヤな日本人がいた」 この一文がさらに細野正文氏に「ひきょうもの」と言うレッテルを貼り付けることになってしまったのです。

  • 細野正文氏はこの件に関して、言い訳を一切せずに、事故から27年後の1939(昭和14)年に68歳で亡くなった。
    死後、細野正文氏の遺品の中から遭難後に、救出先で書いたと思われる、タイタニック号に備え付けられていた便せんに記録がびっしり書き込まれた手記が出てきたのです。

  • その手記によると、細野正文氏はむりやりにボートに乗り込むどころか、他の乗客達を女性を優先にボートへ乗せ、自らは日本男児として最後まで慌てず死まで覚悟をして、身近にあったタイタニック号の便せんに遺書までしたためたとされている。
    沈没間際におろされた最後のボートから指揮官が「あと二人乗れるぞ!」と声を掛けたので、周囲に他に人がいないのを確認した上で、死より生を選び、思い切って救命ボートに飛び乗ったと言う。
    さらに、救命ボートが救助船に発見され乗り移る際も「婦人達ヲ優先ニテ小生ハ最後ノ最後ナリキ」と、あくまでも女性を先にして自分はあとという武士道の美学を貫いていたのです。

  • その後も、言い訳をするなどは男らしくないと、最後まで沈黙を守り通したのです。
    この手記を見つけた細野正文氏の子息らは、ヨーロッパでも「ひきょうな日本人」とされている父の汚名を晴らそうと、手記をもとに論文などを発表しつづける。

  • そして事故から、85年も経過した1997年。タイタニックの関係遺留品管理(1985年9月2日に海底から大量の遺留品が発見された)を行っているアメリカRMS財団の調査によって「細野氏とビーズリー氏の乗った救命ボートは別の物だった」と言う事が判明し、細野正文氏の汚名は晴らされることになったのです。
    ビーズリー氏が乗ったボートに無理矢理乗り込んだ男が東洋系の顔つきをしていたのかも知れませんが、日本人ではなかったようです。

  • ちなみに、この細野正文氏の孫にあたる人物は、なんと世界的に名前を知られた「イエローマジックオーケストラ/YMO」の細野晴臣なのです。
    ※-細野正文氏は1939年に亡くなっているので、1947年生まれの細野晴臣氏とは面識はない。

1985年09月02日 タイタニック号発見

  • 1912年4月に沈んだまま行方不明になっていたタイタニック号が、1985年.09月02日カナダのニューファンドランド島沖で73年ぶりに発見された。
    アメリカとフランスの合同調査隊が、調査潜水艦アルゴの音波探知機と水中カメラを駆使して、水深3800mの深海底に埋もれていた船体を発見し、カラー写真を撮影した。

  • 翌年1986年7月18日になって、ウッズホール海洋研究所の潜水艇に取り付けられたロボット.カメラビデオ撮影にも成功し、船体が真っ二つに折れているのが確認された。
    豪華客船タイタニック号は74年の歳月の中、ただのさび付いた鉄塊と成り果てていた。

タイタニック号の姉妹船

  • タイタニック号は豪華客船シリーズの2番目として作られました。

  • 初代は1911年に完成した「オリンピック号」です。
    オリンピック号は1911年に処女航海に出たのですが、ニューヨーク湾でタグボートと衝突事故を起こしてしまいます。そして3年後には第一次世界大戦が始まり、軍の輸送船に改造されてしまいます。つまり豪華客船として誕生していながら、その期間はわずか3年間でした。
    その後、2度ほど他の船との接触事故を起こすなど、何かと不運な船として1937年に解体されてしまいます。

  • 2隻目は1912年に完成した「タイタニック号」で、処女航海で氷山とぶつかり沈んでしまいます。
    その航海日数はたったの4日間でした。
    もっとも前述のオリンピック号の事もあるので、沈没しなかったとしても2年後に戦争の渦に巻き込まれ客船としての運命を終えていたと思われます。

  • 3隻目の「ブリトニック号」に至っては、1915年に完成した時には戦争が始まっており、豪華客船ではなくいきなり病院船として戦争に担ぎ出されています。
    そして翌年1916年エーゲ海?ドイツ軍の機雷に触れて沈没しています。
    ブリトニック号は「イギリスの船」という意味ですが、実は最初予定されていたのが巨人という意味の「ジャイガンティック号」と言う厳めしい名前でした。
    しかし前のタイタニック号が「ギリシャ神話の巨人タイタン」から取られた厳めしい名前だったわりに簡単に沈んでしまったので、無難な名前に変更されたのです。

更新履歴

  • 2000.00.00
  • 2001.08.01(姉妹船)
  • 2002.05.22(タイタニック号発見)
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