ジョン万次郎 のバックアップソース(No.4)

[[人名し]]【ジョン万次郎】じょんまんじろう~
[[人名な]]【中浜万次郎】なかはままんじろう
#counter(today)
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*1827年(文政10年)0歳 [#v8929e30]
-1月27日:出身地:土佐中の浜(現.[[高知県]]土佐清水市中浜)

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*1841年(天保12年)14歳 [#n67a805c]
-土佐中の浜の少年漁師として、仲間と出漁中に遭難する。~
[[伊豆]]の鳥島に漂着した後、通りがかった[[アメリカ]]の捕鯨船ジョンホーランド号に救助された。
-仲間と共に船上で生活をしている内に、船長ホイットフィールドが万次郎の優秀さに気が付き、万次郎はホイットフィールドの郷里マサチューセッツ州フェアヘイブンへ連れていく事を決意する。
-それ以外の一緒に漂流した漁師仲間はサンドイッチ諸島(現.[[ハワイ]]諸島)オアフ島へ残し、万次郎は単身アメリカ本土で教育を受け、その後に[[捕鯨船>鯨]]乗務員としてホイットフィールドの片腕となる。

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*1850年(嘉永3年)23歳 [#a1a04040]
-故郷への想いを忘れがたい万次郎は、恩人ホイットフィールド船長に別れを告げ、オアフ島に居住していた仲間を伴って中国航路のアメリカ船に乗船。

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*1851年(嘉永4年)24歳 [#q929efc9]
-1月3日:琉球(現.沖縄)近海でボートに移乗し琉球へ上陸。~
そこで捕まった万次郎達は、薩摩(現.鹿児島)を経て長崎へ送られる。

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*1852年(嘉永5年)25歳 [#k1553746]
-土佐へ帰還した。
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-まず薩摩藩主の島津斉彬が万次郎の頭のよさに注目し、万次郎が勉強してきたと言うヨーロッパ型の小型船の建造を指示する。~
さらにペリーの来航と時期が重なり、その才能はますます重要視される事になり、土佐藩の定小者だった万次郎は一気に幕府に迎え入れられて、直参の旗本として中浜の姓名まで授けられる事になる。~
その後、航海術書の翻訳、捕鯨の指導などに当たる。

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*1859年(安政6年)32歳 [#za739bfc]
-幕府初のアメリカ使節団「咸臨丸」の通訳として遣米使節団に参加した。~
同乗者には艦長・木村摂津守を始めとして、勝海舟(37)、福沢諭吉(24)などがいた。
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-ジョン万次郎は年老いた母の為に、[[1860年>1860年]]の[[咸臨丸]]での訪米時に[[ミシン]]を持ち帰った。これが、日本に於けるミシンの伝来1号機。 ~
※漂流後の帰国が[[1851年>1851年]]だったので、シンガーミシンの発売(1851年)を知らずに帰国し、咸臨丸で渡米して初めてミシンの存在を知ったハズ。
-妻には[[カメラ]]を買ってきた。 
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-自分用にはウェブスターの辞書を持ち帰っている(この辞書は最初の帰国の際に持ち込んだという話もある) 

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*1860年(万延1年)33歳 [#z2d9db75]
-9月28日:[[勝海舟]]、[[福沢諭吉]]、中浜(ジョン)万次郎らの遣米使節団帰国~
帰国後は小笠原諸島で捕鯨を試みたり、薩摩藩・土佐藩の船舶購入に漢詩助言を与えたり指導者として動き回った。
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-明治維新後は開成学校教授に任ぜられ、[[英語]]の授業を教えたりもしている。

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*1870年(明治3年)43歳 [#l8f1967e]
-普仏戦争観戦使節団に随行する。

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*1871年(明治4年)44歳 [#sa1cee8e]
-軽い脳溢血にかかり、以後は隠遁生活を送る事になる。

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*1898年(明治31年)71歳 [#j616bd1f]
-11月12日:没:享年71歳
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-本来なら、その知識や才能などをもっと伸ばすことの出来る資質を持った人物だったのだが、帰国した時代がまだ封建制度の色濃く残っている(特に土佐は)時代だった為に、指導者としてのみにとどまってしまった。~
一般に知られる「ジョン万次郎」と言う名称は、のちに書かれた井伏鱒二の小説に由来するもので、自分で対外的に使用した名前は命の恩人ホイットフィールドに呼ばれていた「ジョン・マン」で、周囲からは「中浜万次郎」と呼ばれていたと言う。 ~
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