竹久夢二 のバックアップ(No.3)


【竹久夢二】たけひさ・ゆめじ(画家・詩人)
誕生日:1884(明治17)年09月16日
出身地:岡山県邑久郡本庄村(現.瀬戸内市)
血液型: 型  
本 名:竹久茂二郎
学 歴:    
所 属:    
備 考:『長崎十二景』『宵待草』
死 去:1934年09月01日/享年49 

この項目は未完成です。加筆・訂正を各人の責任の元に行って下さいませ。

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─1884(明治17)年(数え01歳/満00歳)───

  • 1884年09月16日:出身地:岡山県邑久郡本庄村(現.瀬戸内市)生まれ
    本名:竹久茂二郎
    父祖代々の酒造家の次男として生まれたが、兄が早くに亡くなったために一人息子として育てられる。
    兄弟は他に7歳上の姉、6歳下の妹がいる。

─1885(明治18)年(数え02歳/満00〜01歳)─

─1886(明治19)年(数え03歳/満01〜02歳)─

─1887(明治20)年(数え04歳/満02〜03歳)─

  • 3歳の頃すでに絵筆を持ち始めたと言う。その後、小学校に入学して邑久小学校で服部杢三郎先生に鉛筆画を教わった事が、美術へ開眼するきっかけになった。

─1888(明治21)年(数え05歳/満03〜04歳)─

─1889(明治22)年(数え06歳/満04〜05歳)─

─1890(明治23)年(数え07歳/満05〜06歳)─

─1891(明治24)年(数え08歳/満06〜07歳)─

─1892(明治25)年(数え09歳/満07〜08歳)─

─1893(明治26)年(数え10歳/満08〜09歳)─

─1894(明治27)年(数え11歳/満09〜10歳)─

─1895(明治28)年(数え12歳/満10〜11歳)─

─1896(明治29)年(数え13歳/満11〜12歳)─

─1897(明治30)年(数え14歳/満12〜13歳)─

─1898(明治31)年(数え15歳/満13〜14歳)─

─1899(明治32)年(数え16歳/満14〜15歳)─

─1900(明治33)年(数え17歳/満15〜16歳)─

─1901(明治34)年(数え18歳/満16〜17歳)─

  • 父親が古く伝わる面芸に肩入れをし、義太夫の三味線を弾き、放蕩を繰り返していたと言う。それに反抗し、1901年上京し、早稲田実業に入学。

─1902(明治35)年(数え19歳/満17〜18歳)─

─1903(明治36)年(数え20歳/満18〜19歳)─

─1904(明治37)年(数え21歳/満19〜20歳)─

─1905(明治38)年(数え22歳/満20〜21歳)─

  • 苦学の末、本科3年を1905年卒業し、同校専攻科へ。
  • 6月:始めて投稿したスケッチ文「可愛い友達」が読売新聞に掲載される。
  • その掲載がきっかけで荒畑寒村たちと知り合い、平民社の機関誌「直言」にコマ絵を掲載した。これが画家の「竹久夢二」のデビュー作となる。
  • 続けて日刊「平民新聞」でも絵筆を振るった。しかし、露骨な政治批判・世相風刺などの題材を好まず、弱者への共感を基調とした哀愁に満ちた作品が多かった。 その実績が買われ大手の「東京日日新聞」などに挿し絵が買われるようになり、いっぱしのプロとして活動が出来るようになる。
  • 絵画への道が開けた夢二は、早稲田実業の専攻科を中退。 そして少年少女雑誌へ挿し絵や詩を書くようになり、その叙情的な表現で若い読者の圧倒的支持を得る。

─1906(明治39)年(数え23歳/満21〜22歳)─

─1907(明治40)年(数え24歳/満22〜23歳)─

  • 絵はがき店を開いていた2歳年上の岸たまきと知り合う。彼女はしたいわゆる夢二調の最初のモデルとなる。
  • そして結婚をするが、同居別居を繰り返すあまり順調とは言えない結婚生活だったと言われている。

─1908(明治41)年(数え25歳/満23〜24歳)─

─1909(明治42)年(数え26歳/満24〜25歳)─

  • 「夢二画集 春の巻」刊行/大きな反響を得て、「夏の巻」「秋の巻」「旅の巻」「冬の巻」と刊行するが、その度に大反響を得る。
  • 1909年『夢二画集:春の巻』序文に「私は詩人になりたいと思った。けれど私の詩稿はパンのかはりにはなりませんでした」と書かれており、絵の形式で詩を書いたとされている。

─1910(明治43)年(数え27歳/満25〜26歳)─

─1911(明治44)年(数え28歳/満26〜27歳)─

─1912(明治45〜大正元)年(数え29歳/満27〜28歳)─

─1913(大正02)年(数え30歳/満28〜29歳)─

  • 生涯の傑作と言われる詩画集「どんたく」「昼夜帯」を刊行する。 この年に書いた「酔待草」の歌は1918年に大流行した。

─1914(大正03)年(数え31歳/満29〜30歳)─

  • 妻たまきの経営する絵草紙店「港屋」で女子美術学校の学生「笠井彦乃」と知り合い、不倫の恋に落ちる。

─1915(大正04)年(数え32歳/満30〜31歳)─

─1916(大正05)年(数え33歳/満31〜32歳)─

─1917(大正06)年(数え34歳/満32〜33歳)─

  • 笠井彦乃との恋愛が続き、たまきと離婚。

─1918(大正07)年(数え35歳/満33〜34歳)─

  • 1918年9月、夢二が絵と共に書いた詩に多野忠亮が曲をつけた『宵待草』が発表されると、たちまち大ヒットとなった。夢二の念願だった詩でお金を儲ける事が出来たのです。
    ちなみにこの『宵待草』の詩は曲にする目的で書かれた物ではないので、1番しか無く、レコード用に急遽詩人・西条八十が2番の詩を書いていたりします。
    逆に言うと、大正期の偉大なる画家・竹久夢二と、大正期の偉大なる作詩家・西条八十の夢の競演作と言うことも出ます。

─1919(大正08)年(数え36歳/満34〜35歳)─

─1920(大正09)年(数え37歳/満35〜36歳)─

  • 恋人だった笠井彦乃が病気で死去。
  • 傷心の夢二はその後、モデルの永井兼代(通称:お葉)と恋に落ち同棲を始める。
  • 生涯に夢二の愛した女性は「たまき」「彦乃」「お葉」の三人であったが、その激しい恋愛と奔放な生き方は、封建的な社会風潮の中で嫉妬の対象にされた。

─1921(大正10)年(数え38歳/満36〜37歳)─

─1922(大正11)年(数え39歳/満37〜38歳)─

─1923(大正12)年(数え40歳/満38〜39歳)─

─1924(大正13)年(数え41歳/満39〜40歳)─

─1925(大正14)年(数え42歳/満40〜41歳)─

─1926(大正15/昭和元)年(数え43歳/満41〜42歳)─

─1927(昭和02)年(数え44歳/満42〜43歳)─

  • 昭和期に入り、軍事的な風潮が強くなり夢二の哀愁に満ちた女絵の時代は終わった。その後は千代紙や半襟などの図案を手がけ、楽譜のデザインなど装飾美術家として人気を誇った。しかし一般的な人気とはうらはらに、大衆画家を嫌う画壇からは完全に無視されていたと言う。
  • 夢二の絵が正当な評価を受けたのは、夢二の死後、軍事主義の払拭された第二次世界大戦後の事だった。

─1928(昭和03)年(数え45歳/満43〜44歳)─

─1929(昭和04)年(数え46歳/満44〜45歳)─

─1930(昭和05)年(数え47歳/満45〜46歳)─

─1931(昭和06)年(数え48歳/満46〜47歳)─

  • 欧米へ外遊の旅に出るが、その旅先で体を壊して結核に倒れ帰国をする。

─1932(昭和07)年(数え49歳/満47〜48歳)─

─1933(昭和08)年(数え50歳/満48〜49歳)─

─1934(昭和09)年(数え51歳/満49歳)─

  • 9月01日午前5時40分没
    長野県茅野にある信州富士見高原療養所特別室で、徹夜で看病にあたった医師や看護婦に「ありがとう」の言葉をかすかに残して死去。
    死因、肺結核、享年49歳
  • 墓:東京都雑司ヶ谷墓地。墓には有島生馬筆の「竹久夢二を埋む」の碑文がきざまれている。 法名:竹久亭夢生楽園居士。
  • 辞世の歌『日にけ日にけ かつこうの啼く音ききにけり かつこうの啼く音は おほかた哀し』
  • 竹久夢二寓居跡は京都の二年坂にある。
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