渥美清 のバックアップ(No.7)
あ【渥美清】あつみ・きよし(俳優)
誕生日:1928(昭和03)年03月10日
出身地:東京下谷区車坂町
血液型: 型
本 名:田所康雄
学 歴:巣鴨中学
所 属:
備 考:1996・第12号国民栄誉賞
死 去:1996年08月04日転移性肺がん/享年68
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この項目は未完成です。加筆・訂正を各人の責任の元に行って下さいませ。 |
───1928(昭和03)年(00歳)────────── †
- 1928年3月10日:東京下谷区車坂町に生まれる
父 親:地方新聞の政治記者
母 親:元代用教員の母親(次男)
───1945(昭和20)年(16〜17歳)──────── †
- 1945年08月15日:第二次世界大戦・終戦
- 中学卒業後、ヤミ米のかつぎ屋となったり、上野広小路のアメ屋横丁で進駐軍の放出物資を売ったりして、リーゼントスタイルでキメながら稼いだ金で酒を呑みまくる日々を送っていた。
───1946(昭和21)年(17〜18歳)──────── †
- 友人の父親が座長をつとめていた新派軽演劇から誘われて、その一座の幕引きのアルバイトを始める。
- その後、埼玉県大宮市の日活館で「阿部定一代記」と言う出し物の中で通行人役で初出演をする。
- そこから演劇に目覚め、劇団を渡り歩く事になる。
───1947(昭和22)年(18〜19歳)──────── †
───1948(昭和23)年(19〜20歳)──────── †
───1949(昭和24)年(20〜21歳)──────── †
───1950(昭和25)年(21〜22歳)──────── †
───1951(昭和26)年(22〜23歳)──────── †
- 6月:浅草六区の100万ドル劇場の専属コメディアンになる。
───1952(昭和27)年(23〜24歳)──────── †
───1953(昭和28)年(24〜25歳)──────── †
- ストリップ劇場の名門フランス座に入る。
この時代は戦後の浅草軽演劇の黄金時代で、ここでアドリブの才能を磨く
───1954(昭和29)年(25〜26歳)──────── †
- 不摂生が祟り、肺結核で倒れる。
───1955(昭和30)年(26〜27歳)──────── †
───1956(昭和31)年(27〜28歳)──────── †
- フランス座に復帰
───1957(昭和32)年(28〜29歳)──────── †
───1958(昭和33)年(29〜30歳)──────── †
───1959(昭和34)年(30〜31歳)──────── †
- 日本テレビの「すいれん夫人とバラ娘」の三枚目役でTVデビューを果たす。
───1960(昭和35)年(31〜32歳)──────── †
───1961(昭和36)年(32〜33歳)──────── †
- NHKテレビの「若い季節」「夢で逢いましょう」などのレギュラーとなり、全国的な人気を獲得する。
*若い季節:出演/黒柳徹子・ダニー飯田とパラダイスキング/ジェリー藤尾/横山道代
*夢で逢いましょう:出演/中島弘子・E.H.エリック - 「彦市ばなし」(NTV)福田陽一郎演出 出演/渥美清 尾上松緑
───1962(昭和37)年(33〜34歳)──────── †
- フジテレビの連続ドラマ「大番」では、田舎もので図々しくてすざましいバイタリティで周囲に迷惑をかけつつ我が道をいく人物を演じるが、愛嬌があって憎めないと言う主役を演じ、後の寅さんに通じるキャラクターを作り上げる事に成功する。
───1963(昭和38)年(34〜35歳)──────── †
- 前年の「大番」の演技が認められ、松竹映画「拝啓天皇陛下様」で主演する事になる。
農村での生活より兵隊のほうがずっとマシと思う無学で愛すべき人物を好演しスターダムに乗る。 - CM「ユベロン/丈夫で長持ち」
───1964(昭和39)年(35〜36歳)──────── †
───1965(昭和40)年(36〜37歳)──────── †
- 羽仁進監督のアフリカ長期ロケによる映画「ブワナ・トシの歌」に出演。
- 「出口はどこだい!」(NTV)福田陽一郎演出 出演/渥美清 瑳峨三智子 小川真由美 芥川比呂志 杉浦直樹 名古屋章 ホキ徳田
───1966(昭和41)年(37〜38歳)──────── †
- TVシリーズ「泣いてたまるか」主演
───1967(昭和42)年(38〜39歳)──────── †
───1968(昭和43)年(39〜40歳)──────── †
- 山田洋次脚本のフジテレビの連続ドラマ「男はつらいよ」に主演。
これは脚本家の山田洋次に不良少年時代に交友のあったテキ屋たちの思い出を渥美清が語った処、そのイメージを膨らませて出来上がった物だった。 - テレビシリーズの最終回は渥美清演じるフーテンの寅さんが奄美大島でハブに咬まれて死ぬと言う物だったが視聴者から抗議の声が多数寄せられたと言う。
- 1968年:男はつらいよの提供CM「パンシロン(ロート製薬)」
子役沢田聖子と共演「パンシロンでパンパンパン… この歌いつまで続くのォ?」
───1969(昭和44)年(40〜41歳)──────── †
- 8月27日:テレビシリーズを膨らませた形で、山田洋次監督で「男はつらいよ」が映画化される。
- その後も人気は続き、ほぼ1年に2作のペースで、渥美清が亡くなるまで全48作が製作される事になる。
- この記録は同一主人公を同一の役者が演じた最長の映画シリーズとして、ギネスブックにも登録されている。
- しかし、それ以前からの渥美清のファンの間では、寅さん以前の業績や才能をこの映画が封印してしまったと惜しむ声もあった。
───1970(昭和45)年(41〜42歳)──────── †
- 「男はつらいよ・望郷篇」山田洋次監督/渥美清・長山藍子
───1971(昭和46)年(42〜43歳)──────── †
- 「男はつらいよ・寅次郎恋歌」山田洋次監督/渥美清・池内淳子
───1972(昭和47)年(43〜44歳)──────── †
- 「男はつらいよ・柴又慕情」山田洋次監督/渥美清・吉永小百合
───1973(昭和48)年(44〜45歳)──────── †
- 「男はつらいよ・寅次郎忘れな草」山田洋次監督/渥美清・浅丘ルリ子
───1974(昭和49)年(45〜46歳)──────── †
───1975(昭和50)年(46〜47歳)──────── †
- 「男はつらいよ・寅次郎相合い傘」山田洋次監督/渥美清・浅丘ルリ子
───1976(昭和51)年(47〜48歳)──────── †
- 「男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け」山田洋次監督/渥美清・太地喜和子
───1977(昭和52)年(48〜49歳)──────── †
- TVの単発2時間ドラマの先駆けとなった『土曜ワイド劇場』の第一回目放送に渥美清が主演した「時間よとまれ」が放送される。
───1978(昭和53)年(49〜50歳)──────── †
───1979(昭和54)年(50〜51歳)──────── †
───1980(昭和55)年(51〜52歳)──────── †
- 「男はつらいよ・寅次郎ハイビスカスの花」山田洋次監督/渥美清・浅丘ルリ子
───1981(昭和56)年(52〜53歳)──────── †
- CM「サントリーナマ樽」青年よ乾いているかい?おじさんも乾いている
───1982(昭和57)年(53〜54歳)──────── †
───1983(昭和58)年(54〜55歳)──────── †
───1984(昭和59)年(55〜56歳)──────── †
───1985(昭和60)年(56〜57歳)──────── †
───1986(昭和61)年(57〜58歳)──────── †
───1987(昭和62)年(58〜59歳)──────── †
- 「男はつらいよ・知床慕情」山田洋次監督/渥美清・竹下景子
───1988(昭和63)年(59〜60歳)──────── †
───1989(昭和67〜平成元)年(60〜61歳)──── †
───1990(平成02)年(61〜62歳)──────── †
───1991(平成03)年(62〜63歳)──────── †
───1992(平成04)年(63〜64歳)──────── †
───1993(平成05)年(64〜65歳)──────── †
───1994(平成06)年(65〜66歳)──────── †
───1995(平成07)年(66〜67歳)──────── †
- 「男はつらいよ・寅次郎紅の花」山田洋次監督/渥美清・浅丘ルリ子
渥美清の体調が良くないのを知っていた山田洋次は脚本を書くとき「これが最後の作品になるかも知れない」と考え入魂の思いで書いたと言う。
- TVシリーズの寅次郎が奄美大島でハブにかまれて死んだのを思いだし、その映画の舞台に奄美大島にして、いつもの失恋の終わり方とは少し違い、旅に出る事には出るが、ちゃんと寅さんを待っている人が家庭があるという、ハッピーエンド的な終わり方になっている処は、渥美清を愛し、寅さんを愛し続けた山田洋次監督の上手な処です。
- そして、この作品が「男はつらいよ」の最終話になり、渥美清にとっても遺作となった。
- 遺作となったが、次回作の準備も進められていた。
───1996(平成08)年(67〜68歳)──────── †
- 1996年8月4日:転移性肺がんの為に東京都文京区の病院で死去。享年68
派手な事や、家族などをマスコミに出すのが好きではなかった渥美清の遺言の通りに、葬式などはごく限られた身内だけで行われ、その死去のニュースは葬儀後に明らかにされた。 - 1996年8月13日:松竹大船撮影所でファンも含めて関係者で、葬式や告別式と言う形ではなく「渥美清さんとお別れする会」が開催された。
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