ブルーコメッツ のバックアップ(No.2)


【ジャッキー吉川とブルーコメッツ】

  • 0000年00月00日  高橋健二(ベース・ボーカル)
  • 0000年00月00日  小田啓義(オルガン・ピアノ)
  • 所属:渡辺プロダクション
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この項目は未完成です。加筆・訂正を各人の責任の元に行って下さいませ。

───1957(昭和32)年──────────────

  • 1957年09月:大橋道夫が中心となってブルーコメッツの母体が結成された
    専属ボーカルに竹田公彦(和製リッキー・ネルソン)や、山尾トゥインズ(和製エヴァリ・ブラザース)

───1958(昭和33)年──────────────

───1959(昭和34)年──────────────

  • 1959年06月:ジーン・ヴィンセントの来日公演でバックバンドを務める
  • 1959年09月:グループが解散状態となる

───1960(昭和35)年──────────────

  • 1960年04月:解散状態だったが、熱狂的なファンの高校生・鹿内タカシが再建をはかり、新生ブルーコメッツがスタート
    この時にバンドボーイだったジャッキー吉川がメンバーに昇格
    歌手として麻生京子(和製ワンダ・ジャクソン)や、西ドイツ出身のフランツ・フリーデルが参加し活動が軌道に乗り、ジャズ喫茶でも頭角を現すようになる

───1961(昭和36)年──────────────

───1962(昭和37)年──────────────

───1963(昭和38)年──────────────

  • 1963年00月:リーダーだった田村亘(G)が脱退し、ジャッキー吉川がリーダーに昇格
    日大芸術学部の学生だった井上忠夫、元ファイヤーボールの三原綱木が参加し、後のブルーコメッツのメンバーが揃う

───1964(昭和39)年──────────────

  • 1964年00月:専属シンガーだった尾藤イサオが東芝からレコードデビュー
    この頃からブルーコメッツも尾藤のバックバンドとして全国的に有名になる
  • 1964年00月:来日したスペインのラ・スパニオレスのステージを見て「演奏しながら歌うのって格好いい」と感じ、その練習を始める。

───1965(昭和40)年──────────────

  • 1965年09月00日:Album『グランドヒットパレード第3集』インストアルバムだがハミングなどを入れるようになり、インストグループからボーカルグループへと移行を図る
  • 1965年11月00日:Album『クリスマスをエレキギターで』

───1966(昭和41)年──────────────

  • 1966年02月00日:Single「サンダーボール/ミスターキスキスバンバン」inst(007映画の主題歌のカバー)
  • 1966年03月00日:Single「青い瞳(英語盤)/青い彗星」10万枚
    ビートルズ人気と自作自演に影響され井上が作曲を開始する。この曲を聴いたフジ「ザ・ヒットパレード」のディレクター椙山浩一(後の作曲家・すぎやまこういち)が気に入り、橋本淳に英語詩を書かせ番組で毎週演奏した処、大評判となり、洋楽レーベルCBSコロムビアからシングル発売となった。
  • 1966年04月00日:Single「愛の終わりに/バラ色のドレス」
  • 1966年07月00日:Single「青い瞳(日本語盤)/マリナによせて」50万枚
    日本語歌詞をつけ再発、ビートルズ来日もあり、ベンチャーズ風インストバンドが古くさくなってしまったタイミングでのリリースで、大ヒットとなった。
  • 1966年07月00日:Single「青い渚/星に祈りを」
  • 1966年09月00日:Album『青い瞳/ブルーコメッツオリジナルヒット集』
    実質上のボーカルグループ・ブルコメの1stアルバム
    B-2の「Wel come The Beatles」はビートルズ武道館公演の前座で歌った曲で、日本初のビートルズ・トリビュートソング
  • 1966年11月00日:Single「ジングルベル/ブルークリスマス」inst
  • 1966年11月00日:Album『ブルーコメッツのクリスマス』
    前年発売のクリスマスアルバムをタイトルとジャケットを変えて再発
  • 1966年11月00日:Album『ベストヒット'66』
    この年のヒット曲をブルコメがカバーするというかなりお手軽な作品
  • 1966年11月28日:神田の立教講堂でリサイタル・翌年LIVEアルバムとしてリリース
  • 1966年12月00日:Single「何処へ/センチメンタルシティ」

───1967(昭和42)年──────────────

  • 1967年02月00日:Album『ブルーコメッツリサイタル共立講堂実況録音』
    A面はブルコメのバンドとしての魅力満載、しかしB面はフルバンドが登場し残念な結果に
  • 1967年03月01日:Single「ブルーシャトウ/甘いお話」150万枚
  • 1967年06月00日:Single「マリアの泉/白い恋人」
  • 1967年07月20日:Album『決定盤!これぞブルーコメッツ ヤングビート』
    外国曲のカバーアルバム
  • 1967年09月15日:Single「北国の二人/銀色の波」
  • 1967年10月25日:Album『ブルーコメッツオリジナルヒット第2集』
  • 1967年秋:ヨーロッパ旅行
  • 1967年11月00日:コンパクト盤「バラのクリスマス」
  • 1967年12月31日:「ブルーシャトウ」レコード大賞受賞

───1968(昭和43)年──────────────

  • 1968年:タイガース・タイガース・スパイダースなどのアイドル性の人気を持ったGSがデビューしたことより人気に陰りが見えてくる
  • 1968年01月25日:Single「こころの虹/すみれ色の涙」
  • 1968年02月25日:Album『ヨーロッパのブルーコメッツ』
  • 1968年03月17日〜04月03日:アメリカ旅行
  • 1968年03月00日:アメリカの音楽番組「エド・サリヴァン・ショー」出演
  • 1968年05月01日:Single「白鳥の歌/雨の舗道」
    マンネリ打破のために作曲に平尾昌晃を。しかしヒットせず
  • 1968年06月:アメリカのエンタテイメントに触れ「脱GS宣言」をする
  • 1968年07月01日:Single「草原の輝き/マイサマーガール」オリコン15井
  • 1968年11月01日:Single「さよならのあとで/小さな秘密」オリコン3位
    脱GS宣言をした後のシングル、確かにGS的ではないがただのムードコーラス曲(しかしその事により多くの層に支持されヒット)、三原綱木は「こんな歌やっていたら格好悪くてムゲンなんかで踊ってられないよ」と語っている
  • 1968年12月10日:Album『アメリカのブルーコメッツ』
  • 1968年12月25日:Single「雨の赤坂/黒いレースの女」オリコン20井
    前曲を「格好悪い」と語っていた三原綱木が作ってしまったムードコーラス曲
  • 1968年12月25日:Album『ベストオブブルーコメッツ』

───1969(昭和44)年──────────────

  • 1969年04月00日:Single「涙の糸/ブルーシャンソン」オリコン16位
  • 1969年08月00日:Album『ヤングビート ブルーコメッツ』
  • 1969年10月00日:Single「海辺の石段/冬の嵐」

───1970(昭和45)年──────────────

  • 1970年01月:いしだあゆみのAlbum『いしだあゆみリサイタル』のバック演奏
  • 1970年02月00日:Single「それはキッスで始まった/あじさい色の恋」
  • 1970年07月00日:Single「泣きながら恋をして/悲しき玩具」
  • 1970年09月00日:Single「むらさき日記/だから今すぐ」
  • 1970年10月10日:Album『ポピュラーヒット25年史』
    上下巻・各2枚組(計4枚)のアルバムで多くの曲をブルコメが演奏
  • 1970年12月00日:Album『ベストオブブルーコメッツ Vol.2』

───1971(昭和46)年──────────────

  • 1971年01月00日:Single「雨の賛美歌/運命だから」
  • 1971年04月00日:Single「津軽の海/鏡の中でみた恋は」
  • 1971年07月00日:Single「エデンの東/慕情」
  • 1971年08月00日:Single「虹と雲のバラード/愛の子守歌」
  • 1971年10月25日:Album『スターダブルデラックス・ブルーコメッツ』
  • 1971年12月25日:Album『G.S.R』
    1968年に脱GS宣言をしたがGS衰退期に(Group Sound Revival)というアルバムをリリース、GSの生前葬ともいえる作品

───1972(昭和47)年──────────────

  • 1972年02月00日:Single「希望にみちた二人のために/想い出の彼方に」
  • 1972年07月10日:Album『ラブサウンド・ブルーコメッツ』
    バンドの音とかけ離れたコーラスグループ的な曲がならぶ実質上ラストアルバム、この状況について後に井上忠夫は「ブルコメは1969年に解散すべきだった」とコメントしている
  • 1972年08月00日:Single「雨の朝の少女/哀愁のパリ」
  • 1972年10月:実質的な解散(中心メンバーの脱退)
         井上忠夫・三原綱木・高橋健二が脱退

───1973(昭和48)年──────────────

  • 1973年04月00日:Single 「哀しい少女」
    ジャッキーと小田だけが残り、女性を含む若手メンバーでの新生ブルコメ

───1974(昭和49)年──────────────

───1975(昭和50)年──────────────

───1976(昭和51)年──────────────

───1977(昭和52)年──────────────

───1978(昭和53)年──────────────

───1979(昭和54)年──────────────

───1980(昭和55)年──────────────

───1981(昭和56)年──────────────

───1982(昭和57)年──────────────

───1983(昭和58)年──────────────

───1984(昭和59)年──────────────

───1985(昭和60)年──────────────

───1986(昭和61)年──────────────

───1987(昭和62)年──────────────

───1988(昭和63)年──────────────

───1989(昭和64〜平成元)年──────────

───1990(平成02)年──────────────

───1991(平成03)年──────────────

───1992(平成04)年──────────────

───1993(平成05)年──────────────

───1994(平成06)年──────────────

───1995(平成07)年──────────────

───1996(平成08)年──────────────

───1997(平成09)年──────────────

───1998(平成10)年──────────────

───1999(平成11)年──────────────

───2000(平成12)年──────────────

  • 2000年:井上忠夫が死去

───2001(平成13)年──────────────

───2002(平成14)年──────────────

───2003(平成15)年──────────────

───2004(平成16)年──────────────

───2005(平成17)年──────────────

───2006(平成18)年──────────────

───2007(平成19)年──────────────

───2008(平成20)年──────────────

───2009(平成21)年──────────────

───2010(平成22)年──────────────

───2011(平成23)年──────────────

───2012(平成24)年──────────────

───2013(平成25)年──────────────

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───2015(平成27)年──────────────

───2016(平成28)年──────────────

───2017(平成29)年──────────────

───2018(平成30)年──────────────

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───2020(平成32)年──────────────

───2021(平成33)年──────────────

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