あのねのね のバックアップ(No.9)
あ【あのねのね】
- 1951(昭和26)年10月01日
原田伸郎(歌手・タレント)
京都府京都市[A]原田伸郎/京都産業大学
- 1950(昭和25)年10月15日
清水國明(歌手・タレント)
福井県大野市[A]京都産業大学
- 所属:
- 漢字表記:亜乃根野寝
- 別名:そのねのね
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- 日本武道館で一番最初に単独コンサートを開催したフォークシンガーは「あのねのね」
- もともとあのねのねは五人組としてスタートしている。京都産業大学の学生で、修学旅行生相手の旅館のバイトとして宿泊生徒の前で色々な芸を見せている内に「コンテストに出よう」と意気投合してグループとして出発している。
- しかし、ギターが弾けて歌が歌えたのが清水邦明と原田伸郎のみで、残りの3人は後ろで踊るだけの役回り。
- コンテストで歌ったのはオリジナル曲ではなく「ひょっこりひょうたん島」のカバー。特別賞を受賞したが音楽的な部分での評価ではなく、バックの変な踊りが評価されての事だった。そのダンサーの一人が駿河学、後の笑福亭鶴瓶。唯一の女性メンバーは後の鶴瓶の奥さん。もう一人は不明。
- そのけったいなグループの噂からレコード会社が動いたのだが、鶴瓶はその時点ですでに落語家になる決意をしており辞退したが、レコード会社にとってさほど興味を引いていなかったボーカルの二人だけが乗り気になっており、引くに引けなくなったレコード会社はとりあえず契約をした。
- 「ひょっこりひょうたん島」のカバーというと、それ以前は同じ関西出身の「フォーククルセダーズ?(加藤和彦・北山修・端田宣彦)」が有名だったが、あのねのねの活動はそのフォークルを手本としたとされている。
- デビュー時に「期間限定活動」と宣言し(フォークルはその通りに解散、あのねのねは後に撤回)、まだ学生だったので「卒業まで学業優先の活動停止(北山修のほうはその後精神科医になる)」、あえてプロ意識を持たずに受けた曲の次はまったく違う曲をリリース、別名義で曲をリリースする(フォークルは「ズートルビー」、あのねのねは「そのねのね」)などなど。
- あのねのねは真面目な曲をリリースした70年代後半は加藤和彦に曲を提供して貰っている
- 河島英五は「あのねのね」のバックバンドをつとめた「ホモサピエンス」出身。
- 70年代のあのねのね全盛期、デビューしたばかりのユーミン(荒井由実)が前座を務めたことがある。
- 小室哲哉はデビュー前にあのねのねのバックバンドに参加していた。
- バブルガムブラザースのブラザーコン?はあのねのねの弟子出身
───1970(昭和45)年────────────── †
───1971(昭和46)年────────────── †
───1972(昭和47)年────────────── †
───1973(昭和48)年────────────── †
- 1973年03月10日「赤とんぼの唄/魚屋のオッサンの歌」
- 1973年06月10日「さよならの唄」
- 1973年11月:映画「喜劇 日本列島震度0」学生の役で出演
挿入歌として「地震の唄」
───1974(昭和49)年────────────── †
- 1974年02月25日「空飛ぶ円盤の唄」
- 1974年06月10日「でんでん虫の唄」
- 1974年11月10日「雪が降っています」
───1975(昭和50)年────────────── †
- 1975年04月10日「つくばねの唄」
- 1975年08月10日「青春旅情」
───1976(昭和51)年────────────── †
───1977(昭和52)年────────────── †
───1978(昭和53)年────────────── †
───1979(昭和54)年────────────── †
- 1979年00月00日「パンツ丸見え体操」
- 1979年02月25日「ネコ・ニャンニャンニャン」
───1980(昭和55)年────────────── †
- 1980年09月25日「みかんの心ぼし」
───1981(昭和56)年────────────── †
- 1981年04月25日「いたぁーいなにすんの」