島崎藤村 のバックアップ(No.2)
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- 1 (2005-07-16 06:12:04 (土))
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- 3 (2006-08-14 21:19:17 (月))
【島崎藤村】しまざき・とうそん(作家)
誕生日:1872(明治05)年03月25日
出身地:長野県山口村(現.岐阜県中津川市)
血液型: 型
本 名:島崎春樹
学 歴:
所 属:
備 考:
死 去:1943年08月22日/享年71
出身地は「木曽」として有名でしたが山口村が2005年2月13日に岐阜県の中津川市に編入したので、現在の出身地は岐阜県となる
この項目は未完成です。加筆・訂正を各人の責任の元に行って下さいませ。 |
─1872(明治05)年(数え01歳/満00歳)─── †
- 1872年03月25日:出身地:筑摩県(現在の長野県)木曽郡山口村
父親・正樹、母親・ぬい、4男3女の末っ子
島崎家は江戸時代、中仙道の馬篭宿で代々、本陣と庄屋と問屋の三役を兼ねる名家だったが、明治維新後は家運が悪く傾く一方だったと言う。
─1873(明治06)年(数え02歳/満00〜01歳)─ †
─1874(明治07)年(数え03歳/満01〜02歳)─ †
─1875(明治08)年(数え04歳/満02〜03歳)─ †
─1876(明治09)年(数え05歳/満03〜04歳)─ †
─1877(明治10)年(数え06歳/満04〜05歳)─ †
─1878(明治11)年(数え07歳/満05〜06歳)─ †
- 神坂小学校に入学
─1879(明治12)年(数え08歳/満06〜07歳)─ †
─1880(明治13)年(数え09歳/満07〜08歳)─ †
─1881(明治14)年(数え10歳/満08〜09歳)─ †
- 近代的な学問を修めさせようと云う親の意志により、三番目の兄と東京へ送り出され、長姉の嫁ぎ先だった高瀬家に寄宿し、有楽町の泰明小学校へ通う。
その後は三田英学校(後の錦城中学校)共立学校(後の開成中学校)で学ぶ
─1882(明治15)年(数え11歳/満09〜10歳)─ †
─1883(明治16)年(数え12歳/満10〜11歳)─ †
─1884(明治17)年(数え13歳/満11〜12歳)─ †
─1885(明治18)年(数え14歳/満12〜13歳)─ †
─1886(明治19)年(数え15歳/満13〜14歳)─ †
─1887(明治20)年(数え16歳/満14〜15歳)─ †
- ミッションスクールの明治学院普通学部本科に入学。ここでキリスト教の感化を受けた。 政治家になる志を抱いた藤村は英語を熱心に勉強したと云う。
─1888(明治21)年(数え17歳/満15〜16歳)─ †
- 芝高輪の台町教会で牧師・木村熊二から受洗礼。
- しかし開放的な学校のムードになじめず、級友達が女学生などと健康的に文化的交流するのさえ嫌悪し、明治学院の4年間(1887〜1891年)の後半2年は孤独で憂鬱な日々を送ったと云う。
- その結果、文学に深くのめり込み西洋文学の原書を読破し、日本の古典にも親しむようになる。
- 文学的な交友のあった学友に馬場孤蝶や戸川秋骨らがいた。
─1889(明治22)年(数え18歳/満16〜17歳)─ †
─1890(明治23)年(数え19歳/満17〜18歳)─ †
─1891(明治24)年(数え20歳/満18〜19歳)─ †
- 明治学院を卒業
- 一時期、横浜の雑貨屋で働く。
- その後教育文芸誌『女学雑誌』で翻訳の仕事を始める。(主催・巌本善治)
- この時、北村透谷(芸術家の特性と恋愛の神秘を大胆に説いた詩人)と出会う。彼の存在は藤村に多大な刺激を与えた。
- この頃、実家は長男が引き継いでいたが、事業失敗により全財産を失っていた。
─1892(明治25)年(数え21歳/満19〜20歳)─ †
- 秋:明治女学校の高等科教師になる。しかし3カ月で辞職。
- その理由は教え子の佐藤輔子への恋情が高じ、顔を合わせるのが辛くなってしまったからと云う。しかも輔子には郷里に許嫁(いいなずけ)がいた。
- この時、聴講していた女学生の中に後に新宿中村屋を創始した相馬黒光もいた。
─1893(明治26)年(数え22歳/満20〜21歳)─ †
- 自責の念にかられ、辞職し、教会も脱会し、藤村は関西〜東北へ漂泊の旅へ出る。その期間は8カ月に及んだと云う。
- 同人誌『文学界』創刊。
- ここで藤村の文学活動・詩作が動き始めたが、結局佐藤輔子への想いの迷いから、その後3年ほど不振のどん底にあえぐ事になる。
- その3年の間敬愛していた北村透谷の自殺・実家の兄の入獄に伴う一家の世話、そして片思いだった佐藤輔子の病死と精神的不幸が重なる。
─1894(明治27)年(数え23歳/満21〜22歳)─ †
- 明治女学校に復職するが、その後2年間は生彩がないままだった。
─1895(明治28)年(数え24歳/満22〜23歳)─ †
─1896(明治29)年(数え25歳/満23〜24歳)─ †
- 全てを切り捨てる為に、仙台の東北学院に作文教師として赴任した。
- ここでの生活は1年にも満たないが、ここで書いた詩作品は『文学界』に発表されるや大反響を呼ぶことになった。官能や感覚の自由を歌い上げた叙情詩の登場は、日本の近代詩の幕開けを予感させる物だった。
─1897(明治30)年(数え26歳/満24〜25歳)─ †
- 東京に戻り、8月29日処女詩集『若菜集』を出版
─1898(明治31)年(数え27歳/満25〜26歳)─ †
- 詩集『一葉舟』詩集『夏草』出版
- 26歳にして大詩人と称されるようになる。
─1899(明治32)年(数え28歳/満26〜27歳)─ †
- 詩人としての評価は高かったが、それだけでは生活が出来ず、信州の小諸義塾で教鞭を取る。
- 4月:結婚・函館市の網問屋の次女・泰冬子で6歳下・明治女学校の校長に勧められた卒業生だった。
- 信州で『落梅集』にまとまられる詩編を続々と発表。評価は賛否に分かれたが、創作を小説に移行しようと思っていた藤村の最後の詩作となる。
─1900(明治33)年(数え29歳/満27〜28歳)─ †
- 小説を書くために散文の練習を始める。この時の習作が1912年『千曲川のスケッチ』としてまとまる。
- この時期より同年代の作家・田山花袋(28)と親しくつきあう様になる。
─1901(明治34)年(数え30歳/満28〜29歳)─ †
- 『落梅集』最後の詩歌集
─1902(明治35)年(数え31歳/満29〜30歳)─ †
- 10月頃:最初の小説『旧主人』『蕎草履』の2作を同時発表。
- 11月4日:『旧主人』が風俗錯乱として発売禁止になる
─1903(明治36)年(数え32歳/満30〜31歳)─ †
─1904(明治37)年(数え33歳/満31〜32歳)─ †
- 『水彩画家』
- 『藤村詩集』
- この年より長編『破戒』の執筆にとりかかる
─1905(明治38)年(数え34歳/満32〜33歳)─ †
- 6年間過ごした小諸から東京へ移り、『破戒』を本格的に執筆し始める。
- このとき、藤村には冬子との間に3人の娘がいた。
─1906(明治39)年(数え35歳/満33〜34歳)─ †
- 3月25日:『破戒』出版。妻・冬子の父親から借金をして、自分の34歳の誕生日に自費出版
- その写実性とテーマが一大センセーションを起こす。すべての評論家が賛美し、日本での自然主義の成立を認めた。
- 夏目漱石が友人・森田草平にあてた手紙より(1906年4月)
『破戒』読了。明治の小説として後世に伝うべき名篇也。『金色夜叉』の如きは2〜30年の後は忘れられて然るべきものなり。『破戒』は然らず。僕多く小説を読まず。しかし明治の代に小説らしき小説が出たとすれば『破戒』ならんと思う。君4月の『芸苑』において大に藤村先生を紹介すべし。 - しかし作家としての成功の裏で、切り詰めた生活の為に3人の娘をすべて病死させてしまっている。その為、自分のエゴによる小説の出版と引替に娘の命を奪ったと自責の念にかられる事となる。
─1907(明治40)年(数え36歳/満34〜35歳)─ †
- 1907年2月1日:柳田国男・田山花袋・長谷川天渓・島崎藤村らで「イプセン会」結成
─1908(明治41)年(数え37歳/満35〜36歳)─ †
- 『春』
─1909(明治42)年(数え38歳/満36〜37歳)─ †
─1910(明治43)年(数え39歳/満37〜38歳)─ †
- 『家』
- 妻の冬子が4女を出産後、出血多量で死去。(それまでに3人の男の子を産んでいる)
- 3男と生まれたばかりの4女を知人に預け、上の2人の息子は婆やを雇い自分で育てる事にする。が、それを見かねた次兄が長女を手伝いによこす。
─1911(明治44)年(数え40歳/満38〜39歳)─ †
- 次兄の次女・こま子も子供の面倒を見るためにやって来る。
─1912(明治45〜大正元)年(数え41歳/満39〜40歳)─ †
- 『千曲川のスケッチ』
- 次兄の長女が結婚をしたために、次女こま子だけが子守にくる様になる。
そして、藤村とこま子は深い仲になってしまう。そしてこま子が妊娠するという最悪の結末が訪れてしまう。
藤村はすべての責任を背負いきれなくなり、海外逃避の挙に出てしまう。
世間にはこのことは知らされず、一般的には文学追求の為フランスへ留学したとされている。
─1913(大正02)年(数え42歳/満40〜41歳)─ †
- 『突貫』
- 4月:フランスへ向かう船の中から次兄宛の手紙を書き、そこですべてを打ち明けた。
- 次兄は怒ったが、自分の娘こま子の事を想い、生まれた子供は誰も知られる様に見知らぬ他人に手渡すことになった。
─1914(大正03)年(数え43歳/満41〜42歳)─ †
- 『桜の実の熟する時』
─1915(大正04)年(数え44歳/満42〜43歳)─ †
─1916(大正05)年(数え45歳/満43〜44歳)─ †
- 戦争が激化して来たために藤村はひっそりと帰国。
- 次兄には弱みにつけ込まれ、こま子とも情事が再燃してしまう。
─1917(大正06)年(数え46歳/満44〜45歳)─ †
- 『幼きものに』
─1918(大正07)年(数え47歳/満45〜46歳)─ †
- 『新生』発表
次兄との関係、こま子との関係を総括したいと思った藤村は、これまでの事をすべて小説上に書き『新生』という作品として出版。
その結果、次兄からは絶縁され、こま子も愛想をつかして去っていった。(文献によっては、それ以前にこま子を自分の目の届かない処へと考え、当時、台湾に住んでいた長兄にあずけたとされている) - 若き日の文学に燃える青年芥川龍之介は「新生」の事を「この主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことがない」と、芥川の自殺後に発見された遺稿『或阿呆の一生』に記している。(*老獪とは経験を積んでいて悪質な事を云う)
─1919(大正08)年(数え48歳/満46〜47歳)─ †
─1920(大正09)年(数え49歳/満47〜48歳)─ †
- 11月23日:田山花袋・徳田秋声生誕50年祝賀会に出席・講演
─1921(大正10)年(数え50歳/満48〜49歳)─ †
- 2月17日:島崎藤村生誕50年祝賀会を上野精養軒で開催
─1922(大正11)年(数え51歳/満49〜50歳)─ †
- 『藤村全集』刊行開始
- 4月:島崎藤村が運営する婦人雑誌『処女地』創刊
─1923(大正12)年(数え52歳/満50〜51歳)─ †
─1924(大正13)年(数え53歳/満51〜52歳)─ †
- 島崎藤村作編集『国語と国文学』創刊
─1925(大正14)年(数え54歳/満52〜53歳)─ †
- 『童謡詩人会』発足
メンバーは泉鏡花・小川未明・北原白秋・島崎藤村・竹久夢二・野口雨情・若山牧水・金子みすゞなど
─1926(大正15/昭和元)年(数え55歳/満53〜54歳)─ †
- 『嵐』
─1927(昭和02)年(数え56歳/満54〜55歳)─ †
─1928(昭和03)年(数え57歳/満55〜56歳)─ †
- 11月3日:自らが運営した婦人雑誌『処女地』の同人・加藤静子と結婚
24歳も年下の彼女だったが、藤村のよき秘書でもあり、看護婦でもあった。
─1929(昭和04)年(数え58歳/満56〜57歳)─ †
- 4月雑誌「中央公論」に『夜明け前』の第1部掲載。
以後、年4回の割で足掛け7年この作品にかかり切りで書き続けた。
フランスに滞在していた時から「父とその時代」を書きたいと準備していた物だった。
完成時には63歳になっていた。
─1930(昭和05)年(数え59歳/満57〜58歳)─ †
─1931(昭和06)年(数え60歳/満58〜59歳)─ †
─1932(昭和07)年(数え61歳/満59〜60歳)─ †
─1933(昭和08)年(数え62歳/満60〜61歳)─ †
─1934(昭和09)年(数え63歳/満61〜62歳)─ †
─1935(昭和10)年(数え64歳/満62〜63歳)─ †
- 日本ペンクラブ初代会長に就任
─1936(昭和11)年(数え65歳/満63〜64歳)─ †
- アルゼンチン・ブエノスアイレス国際ペンクラブ大会に出席
- 島崎藤村が書いた詩「椰子の実」に曲を付けたものを歌手・東海林太郎が歌いヒット
─1937(昭和12)年(数え66歳/満64〜65歳)─ †
- 島崎藤村名義で『日本文学原論』発行/実際の著者は近藤忠義
─1938(昭和13)年(数え67歳/満65〜66歳)─ †
─1939(昭和14)年(数え68歳/満66〜67歳)─ †
─1940(昭和15)年(数え69歳/満67〜68歳)─ †
─1941(昭和16)年(数え70歳/満68〜69歳)─ †
─1942(昭和17)年(数え71歳/満69〜70歳)─ †
- 日本文学報国会名誉会員
- 第1回大東亜文学者会議に出席し「聖寿万歳!大東亜万歳!」の音頭をとった。
─1943(昭和18)年(数え72歳/満70〜71歳)─ †
- 『夜明け前』の続編ともいうべき『東方の門』の連載を開始(未完)
- 8月22日:神奈川県大磯町東小磯の自宅で脳溢血の為に死去・享年71歳
最期の言葉は「涼しい風だね」だったという。
- 「昭和18年8月21日の朝9時頃、大磯の家の書斎で島崎藤村はいつものように、その頃書き続けていた『東方の門』の原稿を妻の静子に読ませ、それに聴き入っていた。と、急にショックを受け頭痛を訴え、薬をとろうとして倒れた。そのまま体の自由が利かなくなった。静子が薬を口へ入れ、水を呑ませた。水を呑むと「もう大丈夫だから」と言った。意識ははっきりしていた。「そう50枚あるし、あそこで第三章の骨は出ているしね」と作品の内容のことも言った、それから静かに庭の方へ眼をやって「涼しい風だね」と言い、しばらくたってもう一度「涼しい風だね」と言うと、そのまま深い眠りに入った。そのまま眠りからさめず、翌22日午前零時35分、息を引き取った。72歳であった(巌谷大四・瓦板昭和文壇史)」
- 墓:神奈川県大磯町地福寺
- 法名:文樹院静屋藤村居士
- 島崎藤村の遺髪と遺爪は藤村の心に深く刻まれた故郷の馬篭永昌寺墓地に分葬されている。
- 長野県小諸市懐古園の一角には「千曲川旅情の歌」の藤村の詩礎が建つ
─1946(昭和21)年(没後3年)─ †
- 平野謙が緻密な描写で作家論『島崎藤村』を発刊
─1948(昭和23)年(没後5年)─ †
- 1948年1月2日:民衆芸術劇場第1回講演で島崎藤村『破戒』を上演(〜1月26日)
─1962(昭和37)年(没後19年)─ †
- 『破戒』が市川昆監督で映画化
この時ヒロイン「おしほ」を演じた女優は、ヒロインの名前と島崎藤村の名前から「藤村志保」と言う芸名を付けた。